16:00 〜 18:00
[JC05] 公害被害児の人格としての発達と教育
新潟の胎児性水俣病児・古山知恵子さんの主権者・市民としての発達過程から
キーワード:主権者・市民としての発達, 公害被害児, 発達と教育
企画趣旨
人間としての発達は単に認知能力,諸機能の機能的高次化や感情・態度の発展というような側面だけではなく,そうした力を生かして,どれだけ社会の一員として批判的に物事をとらえ,創造の主体となっていくかという主権者・市民としての発達が大切になる。その発達は,主体としての本人自らの能動的活動と周りからの働き掛け(教育)との関係で成り立つ。まさに真空の中ではない社会的な影響の中での発達の過程である。
ご存知のように新潟は第二の水俣病の被害地である。そこに一人顕著な被害を受けた胎児性水俣病児が1965年に生まれた。それから50年,当人は今,手足に,構音に重い障害はあっても現在50歳の主権者・市民として自ら発信し前向きに生きている。
そこにはどんな発達と教育のプロセスがあったのだろうか,まさに教育心理学の焦眉の課題と言える。新潟で大会があるのを機会に本人の登壇も得て,各発達期における姿を報告し,参会者とともに,教育心理学としてそこから何が学べるかを討論したい。(障「がい」の表記は報告者に依拠)
話題提供
1.本人からの発言
古山知恵子
「私は,新潟水俣病で唯一の胎児性水俣病と認定された古山知恵子です。昭和電工がメチル水銀を海や川に流しそれが魚介類などに入って,それを私がお腹にいるときにたくさん食べたために,こんな病気になり,障害者になってしまったのです。けれども,たくさんの人の支援で頑張ってくることができました。幼少期から今日に至るまで,どのように歩んできたか,私自身と周りからの働きかけとの関係の実際については,支え手の側から,話題提供がされるので,ここでは省略します。
私は,幼少期から学校時代,作業所時代と,つい最近まで親の協力を得ての自宅暮らしをしてきました。
けれども,今,身近で生活面を支えてくれた母の高齢化の中でそれが無理になってきました。これを機会に,かねてから望んできた自分自身の自立・一人暮らしをしたいと取り組みました。しかし,その実現は難しく,障がい者支援施設に入居しました。市営住宅の一角に介護者が数人にいて,何か困った時にコールを押して呼ぶと来てもらえるような市営住宅を市が作れば,私みたいに一人暮らしをしたいと思っている他の障害者のみんなが今より,一層一人暮らしができるようになると思っています。公害で障害を受けた私は,今問題の放射能災害も含めた広義の公害問題と障害者の権利保障を切り結んで皆の要求を実現していけるよう,日々そうした活動に取り組んでいます。」
2.乳幼児時代の発達と教育
金田利子
2歳の5月に出会う。首・腰座らず,姿勢は仰向位。流涎多く,錐体路症状有…(詳細は当日配布),虚ろなまなざしで,炉辺に横たわり,食事も全介助の状況。公害運動も水俣裁判闘争は盛んであるが,子どもの発達には目が行ってない。
報告者は,児童学の大学院修了後の初の勤務地近くの本児に出会い,週1回のペースで訪問,「診断即治療」の観点から本児の発達に働きかけつつ発達を保障することに学生とともに取り組む。
さらに小児のリハビリテーションに関わる医療施設はまぐみ学園の母子入園につなぐ。経費保障上も公害運動とかかわりつつのため,当時公害運動への偏見視があり,報告者も「パージ」にあいつつも取り組む中で,実現。機能訓練により見事に首が座り,座位が可能になる。そうなると目が「輝き」,表情が「可愛く」なっていく。(そのまま炉辺で寝ていたら,と,考えると働きかけの意義がわかる。当日写真で比較)その後も紆余曲折あるが,県立新潟養護学校はまぐみ分校に入学。
3.学校時代の発達と教育
南雲純雄
人は人なり:年齢差による区分はあっても,いろいろな条件によっての色分けは必要なのか。現状では無理なことは分かっているが。
親ありき:親から学んだこと。
まわりからの働きかけ(教育):人的・物的・社会的支援。
特別支援を必要とする人への接し方:見守りと働きかけ,「いそがない=待つ」。
最後に:「今 この子といる ありがとう」
(注:南雲先生は童謡詩人でもある。知恵子さんも小学校時代たくさんの詩を書いている。)
4.卒業後の発達と教育
川崎和幸
① 知恵子さんが福祉施設しろやま作業所へ
養護学校高等部を卒業後,木戸病院の言語療法士の紹介で身体障がいの方が多い当作業所へ入所。
しろやまは当時無認可作業所。運営委員会に養護学校の教職員が多く入会している全国障害者問題研究会からその委員を出してもらい知恵子さん他卒業生の就労支援を担当。
② 知恵子さんが働き社会の一員となる。
「働こう障がい者も…」(共同作業所連絡会の方針)と,自ら働き作ったものを売り少しだが給料も得て社会参加がはじまった。
③ 知恵子さんが運動の先頭にたつ。
「障害があっても当たり前の生活を」この運動には職員だけでなく利用者も一緒に取組む。
④ 知恵子さんが自らの月刊誌の読み合わせ会・タンポポ会を立ち上げた。
この取り組みに所長が全面的な支援を決め関わる中で,私の方も生きる上で多くを学ばされた。仲間が増え終了後も形を変え今も続いている。
⑤ 知恵子さんの人格発達の課題
真の自立への仲間との共同による取組み
同上 援助者との相互理解
指定討論
1.「新潟の胎児性水俣病患者について―主治医の立場から」
斉藤 恒
2002年10月,米国ロチェスター大学の小児神経学のマイヤーズ教授を私は同僚の関川先生らと新潟で唯一の胎児性水俣病とされている古山さん宅を案内した。その時マイヤーズ教授が驚いて何度も私に聞いた。「私は驚きました。どうして彼女はこんなに明るく元気なんでしょう。全身が不自由でよく歩くことも話すこともできないのに,こんなに笑顔で迎えてくれられるんでしょう?」と私は繰り返し聞かれた。
胎児性水俣病は発達,運動,知能障害の重症例が認定された。しかし,彼女の場合,不遇な身体条件の中で教育が知性の発達を促し,明るさと自信を与えている貴重な例であると私は考えている。この優れた例を多くの人に知って欲しいと思う。
2.熊本の事例との比較から
田尻雅美
熊本県水俣市で水俣病の発生が公式確認されたのは1956年であった。きっかけとなったのは小児性水俣病の田中姉妹であった。調査が進むに連れて,同様の症状を有する胎児性水俣病の患者がいることが分かってきた。しかし,胎児性水俣病であると認められたのは二人目の解剖所見が出た1962年であった。いっぽう,新潟では胎児性水俣病を出さないための妊娠・出産規制がなされた。
教育に関しては,日吉フミコ氏が水俣市議会員となってから,取り組みが始まった。重症の胎児性患者達に教育の機会が与えられたのは湯之児病院内における分校の設置(1969年),訪問教育の開始以降(1973年)である。大人の水俣病患者の運動のかげで,自己主張し,自らの意思を表明しようとする胎児性患者たちも60歳を迎えつつあり,残された課題は大きい。
3.教育心理学の立場から
河崎道夫
子どもの教育や発達に関わる心理学は,現在大きなターニングポイントにあると思われる。
一般的な「標準化」された発達像の追究から抜け出して,新しい視点が模索されねばならない。個別個人の具体的な物語としての発達を出発点とし,普遍的な「人間の発達」について何かを語ることができるならば,それは大きな一歩であろう。生活と実践に根ざした新しい発達的アプローチとして期待したい。
人間としての発達は単に認知能力,諸機能の機能的高次化や感情・態度の発展というような側面だけではなく,そうした力を生かして,どれだけ社会の一員として批判的に物事をとらえ,創造の主体となっていくかという主権者・市民としての発達が大切になる。その発達は,主体としての本人自らの能動的活動と周りからの働き掛け(教育)との関係で成り立つ。まさに真空の中ではない社会的な影響の中での発達の過程である。
ご存知のように新潟は第二の水俣病の被害地である。そこに一人顕著な被害を受けた胎児性水俣病児が1965年に生まれた。それから50年,当人は今,手足に,構音に重い障害はあっても現在50歳の主権者・市民として自ら発信し前向きに生きている。
そこにはどんな発達と教育のプロセスがあったのだろうか,まさに教育心理学の焦眉の課題と言える。新潟で大会があるのを機会に本人の登壇も得て,各発達期における姿を報告し,参会者とともに,教育心理学としてそこから何が学べるかを討論したい。(障「がい」の表記は報告者に依拠)
話題提供
1.本人からの発言
古山知恵子
「私は,新潟水俣病で唯一の胎児性水俣病と認定された古山知恵子です。昭和電工がメチル水銀を海や川に流しそれが魚介類などに入って,それを私がお腹にいるときにたくさん食べたために,こんな病気になり,障害者になってしまったのです。けれども,たくさんの人の支援で頑張ってくることができました。幼少期から今日に至るまで,どのように歩んできたか,私自身と周りからの働きかけとの関係の実際については,支え手の側から,話題提供がされるので,ここでは省略します。
私は,幼少期から学校時代,作業所時代と,つい最近まで親の協力を得ての自宅暮らしをしてきました。
けれども,今,身近で生活面を支えてくれた母の高齢化の中でそれが無理になってきました。これを機会に,かねてから望んできた自分自身の自立・一人暮らしをしたいと取り組みました。しかし,その実現は難しく,障がい者支援施設に入居しました。市営住宅の一角に介護者が数人にいて,何か困った時にコールを押して呼ぶと来てもらえるような市営住宅を市が作れば,私みたいに一人暮らしをしたいと思っている他の障害者のみんなが今より,一層一人暮らしができるようになると思っています。公害で障害を受けた私は,今問題の放射能災害も含めた広義の公害問題と障害者の権利保障を切り結んで皆の要求を実現していけるよう,日々そうした活動に取り組んでいます。」
2.乳幼児時代の発達と教育
金田利子
2歳の5月に出会う。首・腰座らず,姿勢は仰向位。流涎多く,錐体路症状有…(詳細は当日配布),虚ろなまなざしで,炉辺に横たわり,食事も全介助の状況。公害運動も水俣裁判闘争は盛んであるが,子どもの発達には目が行ってない。
報告者は,児童学の大学院修了後の初の勤務地近くの本児に出会い,週1回のペースで訪問,「診断即治療」の観点から本児の発達に働きかけつつ発達を保障することに学生とともに取り組む。
さらに小児のリハビリテーションに関わる医療施設はまぐみ学園の母子入園につなぐ。経費保障上も公害運動とかかわりつつのため,当時公害運動への偏見視があり,報告者も「パージ」にあいつつも取り組む中で,実現。機能訓練により見事に首が座り,座位が可能になる。そうなると目が「輝き」,表情が「可愛く」なっていく。(そのまま炉辺で寝ていたら,と,考えると働きかけの意義がわかる。当日写真で比較)その後も紆余曲折あるが,県立新潟養護学校はまぐみ分校に入学。
3.学校時代の発達と教育
南雲純雄
人は人なり:年齢差による区分はあっても,いろいろな条件によっての色分けは必要なのか。現状では無理なことは分かっているが。
親ありき:親から学んだこと。
まわりからの働きかけ(教育):人的・物的・社会的支援。
特別支援を必要とする人への接し方:見守りと働きかけ,「いそがない=待つ」。
最後に:「今 この子といる ありがとう」
(注:南雲先生は童謡詩人でもある。知恵子さんも小学校時代たくさんの詩を書いている。)
4.卒業後の発達と教育
川崎和幸
① 知恵子さんが福祉施設しろやま作業所へ
養護学校高等部を卒業後,木戸病院の言語療法士の紹介で身体障がいの方が多い当作業所へ入所。
しろやまは当時無認可作業所。運営委員会に養護学校の教職員が多く入会している全国障害者問題研究会からその委員を出してもらい知恵子さん他卒業生の就労支援を担当。
② 知恵子さんが働き社会の一員となる。
「働こう障がい者も…」(共同作業所連絡会の方針)と,自ら働き作ったものを売り少しだが給料も得て社会参加がはじまった。
③ 知恵子さんが運動の先頭にたつ。
「障害があっても当たり前の生活を」この運動には職員だけでなく利用者も一緒に取組む。
④ 知恵子さんが自らの月刊誌の読み合わせ会・タンポポ会を立ち上げた。
この取り組みに所長が全面的な支援を決め関わる中で,私の方も生きる上で多くを学ばされた。仲間が増え終了後も形を変え今も続いている。
⑤ 知恵子さんの人格発達の課題
真の自立への仲間との共同による取組み
同上 援助者との相互理解
指定討論
1.「新潟の胎児性水俣病患者について―主治医の立場から」
斉藤 恒
2002年10月,米国ロチェスター大学の小児神経学のマイヤーズ教授を私は同僚の関川先生らと新潟で唯一の胎児性水俣病とされている古山さん宅を案内した。その時マイヤーズ教授が驚いて何度も私に聞いた。「私は驚きました。どうして彼女はこんなに明るく元気なんでしょう。全身が不自由でよく歩くことも話すこともできないのに,こんなに笑顔で迎えてくれられるんでしょう?」と私は繰り返し聞かれた。
胎児性水俣病は発達,運動,知能障害の重症例が認定された。しかし,彼女の場合,不遇な身体条件の中で教育が知性の発達を促し,明るさと自信を与えている貴重な例であると私は考えている。この優れた例を多くの人に知って欲しいと思う。
2.熊本の事例との比較から
田尻雅美
熊本県水俣市で水俣病の発生が公式確認されたのは1956年であった。きっかけとなったのは小児性水俣病の田中姉妹であった。調査が進むに連れて,同様の症状を有する胎児性水俣病の患者がいることが分かってきた。しかし,胎児性水俣病であると認められたのは二人目の解剖所見が出た1962年であった。いっぽう,新潟では胎児性水俣病を出さないための妊娠・出産規制がなされた。
教育に関しては,日吉フミコ氏が水俣市議会員となってから,取り組みが始まった。重症の胎児性患者達に教育の機会が与えられたのは湯之児病院内における分校の設置(1969年),訪問教育の開始以降(1973年)である。大人の水俣病患者の運動のかげで,自己主張し,自らの意思を表明しようとする胎児性患者たちも60歳を迎えつつあり,残された課題は大きい。
3.教育心理学の立場から
河崎道夫
子どもの教育や発達に関わる心理学は,現在大きなターニングポイントにあると思われる。
一般的な「標準化」された発達像の追究から抜け出して,新しい視点が模索されねばならない。個別個人の具体的な物語としての発達を出発点とし,普遍的な「人間の発達」について何かを語ることができるならば,それは大きな一歩であろう。生活と実践に根ざした新しい発達的アプローチとして期待したい。