16:00 〜 18:00
[JF02] 若者・青年はおとなしくなったのか?
新たな若者論の構築に向けて
キーワード:現代青年, 社会, 居場所
現代の若者を表現する際に,現状に満足し元気がなく精神的に弱い,内向き指向であるとしばしば言われている。しかし若者が本当に現状に満足しおとなしく覇気が無く内向きであるのか?社会問題などには関心を持たず,身近な生活に満足し幸福感が高いという青年の姿は,本当なのか?また「内向き」で「おとなしい」ことはそもそも本当に望ましくないことなのか?対極とされる「元気,活発で強い」「外向き指向」「グローバル」な人間像は,単に産業界にとって都合のよい人材像にすぎないのではないか。しかしそうした産業界のニーズとは異なる評価軸を提供することによって,より豊かな人間教育を考えるきっかけを社会に発信できるだろう。こうした論点に焦点を当て,パーソナリティ心理学,臨床心理学,社会教育学などの研究者によって明らかにする。
人材論としての若者論
(岡田 努)
青年期という発達段階は生物的な発達の影響が大きい乳幼児期などとことなり,社会制度や文化・時代などに規定された社会的構成概念である(久世, 2000)。それは当該の社会が潜在的・顕在的に望ましいと考える在り方に沿った発達的枠組みでもあり,心理学もそうした「社会的望ましさ」から必ずしも自由な立場ではない。
ところで欧米を中心とした先進諸国では,18歳から25歳の年代は,職業や自分の生き方などについて特定の役割にとらわれず真剣に試行錯誤を行う時期であり,青年期とは区別された「成人形成期」という発達段階を設ける考え方が主流になってきている(Arnet, 2000など)。
一方日本では,大学と企業・社会の教育を連続的にとらえ,産業界が期待する人材育成のための教育改革が求められている(経済同友会, 2015など)。大学においても,そうした人材育成目標に整合した形でのFD(Faculty development)活動や授業改革が進められ,また早期からのキャリア教育によって,模索や試行錯誤よりも,早くから自らの人生を職業に合わせて決定する方向での教育がなされている。
青年から成人にかけての発達を考える際に,欧米と同様の発達段階を想定するためには,前提として,模索や試行錯誤を伴った若者をどのように位置づけるかについての議論は不可欠であるが,そうした議論はまだほとんど行われていない。早期から自らの方向を見定め自己鍛錬する人間像は,経済活動における「グローバル人材」としては適性をもった人間像と言えるかもしれない。反対に自らの方向性を模索し試行錯誤のただ中にいる欧米型の「成人形成期」の若者は,日本の現代社会や産業界のニーズに照らしたとき「弱い」「おとなしい」あるいは「未熟な」青年として見えてしまうかもしれない。このように,発達過程そのものをグローバルな視点から見ようとしたとき,どのような青年を見ているのか,それをどう評価するのかについての検討を避けて通ることはできないだろう。またそれは「おとなしい」青年像自体の再検討にもつながることである。
自主シンポではそうした点について実証的なデータも含めて紹介し議論の端緒としたい。
大人が切り取る「若者」,若者が感じ取る「大人」-若者支援の現場から
(萩原建次郎)
現代の社会では,経済原理からみた「勝ち組」として,国際舞台で競争に勝ち抜いていく生産力の高い人間像ばかりが理想の人間として強調されがちである。しかし実際にそうではない生き方,経済原理の「勝ち負け」とは違ったところで居場所を得て,幸せをつかんでいこうとする若者たちもいる。
ところで,そもそも若者を他世代や時代状況,文化,風土との関係性から切り離し,自己完結した存在として取り出すことはできない。彼らは,大人の理解の超えたところで,好き勝手に生きているわけではなく,大人や社会,制度,文化,風土を空気のように吸い,ときには違和感を持ちつつも,それらから期待されている役割や,価値意識を自ら学び取りながら,彼らなりの解釈をして自己形成している。彼らの視線の先には同じく現代を生きている大人や社会がある。裏を返せば,若者は日々大人(親,教師,地域など)の視線とそこに含まれている暗黙の価値や意味を感じ取りながら,社会や他者を経験している。
本話題提供では,そのような前提にもとづき,若者の視界に映る大人の在り様に注目した事例を取り上げ,大人の視線の中で若者がどのような位置に立たされているのか,大人と若者の関係性はどのようなものかを検討する。若者に向けられている大人の視線に焦点をあてることによって,逆に大人がどのような価値意識を持ち,どのような関係性を若者に求めているのかが見えてくる。いいかえれば,「いまどきの若者」という視線を大人が彼らに向けるとき,そこには「いまどきの若者」に対置され,彼らへの暗黙の期待や価値の枠組みを湛えた「いまどきの大人」がいる。
一方,若者側からすれば,「大人」からの期待や価値の枠組みを疑問と感じ,そこをすりぬけ,異なる次元で価値や幸せを求めている場合もある。若者が「いまどきの大人」の視線に映らないところで,何を求めているのか,大事にしようとしているのかについても,若者自身が語る事例を手がかりに検討したい。しかし,そこにあるのは世代間の深い溝ではなく,もしかしたら,大人も根底で希求しているものなのかもしれない。
本話題提供では,そうした大人と若者の視線の交差とずれを参加者と共に考えていけたらと思う。
心理臨床の現場に見る若者たち
(原田克己)
臨床心理士として心理臨床活動を行っている中で,多くの若者たちに出会う。活動の性質上,出会う若者たちは,学校や社会という場においてなにがしかの生きづらさを感じている者たちであり,周囲の大人から見れば「不適応」と言われる状態にある者たちである。しかし,会って話を聴いてみれば,多くの場合彼らはとても誠実であり,まじめであり,やさしいことが分かる。つまり,向社会的と思われる姿をしているのである。
このような若者たちに出会う度に,どうしてこのような若者が生きづらさを感じるのだろうと疑問に思わされる。そして彼らがそうした自分の姿を「ネガティブ」と否定的に自己規定することに,悲しみの念を禁じ得ない。
適応を考えるとき,その適応の対象となるのは彼らを取り巻く環境である。とかく大人たちはその環境に合わせられるよう彼らに働きかけ,その働きかけを支援と呼ぶ。しかしながら,彼らを取り巻く環境が果たして彼らが合わせられるようにするのにふさわしいものであるのかどうかと考えてみれば,適応や支援という言葉によって指し示されるものの内実についての評価は大きく変わる。
たとえば,考えてみれば,学校という場は人工的な装置である。歴史的文化的背景を有しており,概ね妥当性を有している場であるとしても,すべての者たちにとって成長促進的な場であるわけではない。不登校やいじめ,暴力行為の件数を見ても,学校は決して穏やかな場ではないことが分かる。本来教育とは,若者たちの成長の可能性に期待し,長い視野をもってその成長を見守る営みであろう。学習指導要領にうたわれている「生きる力」には,児童や若者たちへの温かいまなざしも感じられる。しかし一方では,現在の教育界には市場原理が大きく入り込んできており,生産的とされるアウトプットを短期的になすことが求められており,またその成果によって評価がなされる向きがある。このような社会にあって「不適応」となる若者たちは,はたして本当に否定的に評価されるべき存在なのであろうか。若者たちが悩み迷うことを許容する器が希薄化してきているとも捉えられないだろうか。
本シンポジウムでは,こうした疑問を率直に投げかけ,若者理解の枠組みについて考えたい。
現代青年の恋愛包囲網
(髙坂康雅)
草食(系)男子や干物女などの呼称に代表されるように,恋愛に積極的ではない,あるいはそもそも恋人を欲しいと思わない若者・青年の存在がある程度認知されるようになっている。現在,大学生では約20%が,恋人を欲しいと思っていないことが明らかにされている(髙坂, 2011, 2013)。また,恋人を欲しいと思わない青年は,恋人がいる青年や恋人を欲しいと思っている青年に比べ,アイデンティティの感覚を得られておらず,充実感も気力もないが,自分の意見が最善であると考えやすい傾向にあることが示されている(髙坂, 2011)。しかし,恋人を欲しいと思わない青年が一様にネガティブな特徴を有するわけではない。髙坂(2013)は,恋人を欲しいと思わない理由を「負担回避」,「自信なし」,「充実生活」,「意義不明」,「ひきずり」,「楽観予期」の6つに分類している。このうち,「自信なし」を主な理由とする者は,Erikson(1959 西平・中島訳 2011)が指摘しているように,親密な関係を恐れ,尻込みしているようなタイプである。一方,「楽観予期」を主な理由とする青年は,恋人がいる者と同等あるいはそれ以上に自我発達が進行し,コミュニケーションに対する自信をもち,友人関係も良好であることが示されている(髙坂, 2014)。
このように,自我発達やコミュニケーションの観点からみて,恋人を欲しいと思わない青年だからといって,必ずしもネガティブな特性を有するわけではないが,世間的に,恋人を欲しいと思わない青年は,否定的・批判的に見られることが多く,「恋愛は面倒くさい」という主張は,恋人ができないことに対する自己正当化であると断ずる者もいる(森川, 2015)。しかし,現在,恋人を欲しいと思っている/思っていないにかかわらず,青年は実に恋愛しにくい状況におかれており,しかも,その状況をつくった大人から批判されていると考えられる。その主な理由として,①恋愛に対するダブルバインド,②男女平等社会と男女不平等恋愛,③恋愛既視感と恋愛圏外感,④恋愛イリュージョンの喪失,⑤エンターテインメントの多様性,などが考えられる。
本話題提供では,恋人を欲しいと思わない青年に関する実態調査や研究成果を概観するとともに,青年が恋愛に向かいにくくなっている要因を検討することにより,現代青年の恋愛に対する「おとなしさ」について議論を深めていきたい。
人材論としての若者論
(岡田 努)
青年期という発達段階は生物的な発達の影響が大きい乳幼児期などとことなり,社会制度や文化・時代などに規定された社会的構成概念である(久世, 2000)。それは当該の社会が潜在的・顕在的に望ましいと考える在り方に沿った発達的枠組みでもあり,心理学もそうした「社会的望ましさ」から必ずしも自由な立場ではない。
ところで欧米を中心とした先進諸国では,18歳から25歳の年代は,職業や自分の生き方などについて特定の役割にとらわれず真剣に試行錯誤を行う時期であり,青年期とは区別された「成人形成期」という発達段階を設ける考え方が主流になってきている(Arnet, 2000など)。
一方日本では,大学と企業・社会の教育を連続的にとらえ,産業界が期待する人材育成のための教育改革が求められている(経済同友会, 2015など)。大学においても,そうした人材育成目標に整合した形でのFD(Faculty development)活動や授業改革が進められ,また早期からのキャリア教育によって,模索や試行錯誤よりも,早くから自らの人生を職業に合わせて決定する方向での教育がなされている。
青年から成人にかけての発達を考える際に,欧米と同様の発達段階を想定するためには,前提として,模索や試行錯誤を伴った若者をどのように位置づけるかについての議論は不可欠であるが,そうした議論はまだほとんど行われていない。早期から自らの方向を見定め自己鍛錬する人間像は,経済活動における「グローバル人材」としては適性をもった人間像と言えるかもしれない。反対に自らの方向性を模索し試行錯誤のただ中にいる欧米型の「成人形成期」の若者は,日本の現代社会や産業界のニーズに照らしたとき「弱い」「おとなしい」あるいは「未熟な」青年として見えてしまうかもしれない。このように,発達過程そのものをグローバルな視点から見ようとしたとき,どのような青年を見ているのか,それをどう評価するのかについての検討を避けて通ることはできないだろう。またそれは「おとなしい」青年像自体の再検討にもつながることである。
自主シンポではそうした点について実証的なデータも含めて紹介し議論の端緒としたい。
大人が切り取る「若者」,若者が感じ取る「大人」-若者支援の現場から
(萩原建次郎)
現代の社会では,経済原理からみた「勝ち組」として,国際舞台で競争に勝ち抜いていく生産力の高い人間像ばかりが理想の人間として強調されがちである。しかし実際にそうではない生き方,経済原理の「勝ち負け」とは違ったところで居場所を得て,幸せをつかんでいこうとする若者たちもいる。
ところで,そもそも若者を他世代や時代状況,文化,風土との関係性から切り離し,自己完結した存在として取り出すことはできない。彼らは,大人の理解の超えたところで,好き勝手に生きているわけではなく,大人や社会,制度,文化,風土を空気のように吸い,ときには違和感を持ちつつも,それらから期待されている役割や,価値意識を自ら学び取りながら,彼らなりの解釈をして自己形成している。彼らの視線の先には同じく現代を生きている大人や社会がある。裏を返せば,若者は日々大人(親,教師,地域など)の視線とそこに含まれている暗黙の価値や意味を感じ取りながら,社会や他者を経験している。
本話題提供では,そのような前提にもとづき,若者の視界に映る大人の在り様に注目した事例を取り上げ,大人の視線の中で若者がどのような位置に立たされているのか,大人と若者の関係性はどのようなものかを検討する。若者に向けられている大人の視線に焦点をあてることによって,逆に大人がどのような価値意識を持ち,どのような関係性を若者に求めているのかが見えてくる。いいかえれば,「いまどきの若者」という視線を大人が彼らに向けるとき,そこには「いまどきの若者」に対置され,彼らへの暗黙の期待や価値の枠組みを湛えた「いまどきの大人」がいる。
一方,若者側からすれば,「大人」からの期待や価値の枠組みを疑問と感じ,そこをすりぬけ,異なる次元で価値や幸せを求めている場合もある。若者が「いまどきの大人」の視線に映らないところで,何を求めているのか,大事にしようとしているのかについても,若者自身が語る事例を手がかりに検討したい。しかし,そこにあるのは世代間の深い溝ではなく,もしかしたら,大人も根底で希求しているものなのかもしれない。
本話題提供では,そうした大人と若者の視線の交差とずれを参加者と共に考えていけたらと思う。
心理臨床の現場に見る若者たち
(原田克己)
臨床心理士として心理臨床活動を行っている中で,多くの若者たちに出会う。活動の性質上,出会う若者たちは,学校や社会という場においてなにがしかの生きづらさを感じている者たちであり,周囲の大人から見れば「不適応」と言われる状態にある者たちである。しかし,会って話を聴いてみれば,多くの場合彼らはとても誠実であり,まじめであり,やさしいことが分かる。つまり,向社会的と思われる姿をしているのである。
このような若者たちに出会う度に,どうしてこのような若者が生きづらさを感じるのだろうと疑問に思わされる。そして彼らがそうした自分の姿を「ネガティブ」と否定的に自己規定することに,悲しみの念を禁じ得ない。
適応を考えるとき,その適応の対象となるのは彼らを取り巻く環境である。とかく大人たちはその環境に合わせられるよう彼らに働きかけ,その働きかけを支援と呼ぶ。しかしながら,彼らを取り巻く環境が果たして彼らが合わせられるようにするのにふさわしいものであるのかどうかと考えてみれば,適応や支援という言葉によって指し示されるものの内実についての評価は大きく変わる。
たとえば,考えてみれば,学校という場は人工的な装置である。歴史的文化的背景を有しており,概ね妥当性を有している場であるとしても,すべての者たちにとって成長促進的な場であるわけではない。不登校やいじめ,暴力行為の件数を見ても,学校は決して穏やかな場ではないことが分かる。本来教育とは,若者たちの成長の可能性に期待し,長い視野をもってその成長を見守る営みであろう。学習指導要領にうたわれている「生きる力」には,児童や若者たちへの温かいまなざしも感じられる。しかし一方では,現在の教育界には市場原理が大きく入り込んできており,生産的とされるアウトプットを短期的になすことが求められており,またその成果によって評価がなされる向きがある。このような社会にあって「不適応」となる若者たちは,はたして本当に否定的に評価されるべき存在なのであろうか。若者たちが悩み迷うことを許容する器が希薄化してきているとも捉えられないだろうか。
本シンポジウムでは,こうした疑問を率直に投げかけ,若者理解の枠組みについて考えたい。
現代青年の恋愛包囲網
(髙坂康雅)
草食(系)男子や干物女などの呼称に代表されるように,恋愛に積極的ではない,あるいはそもそも恋人を欲しいと思わない若者・青年の存在がある程度認知されるようになっている。現在,大学生では約20%が,恋人を欲しいと思っていないことが明らかにされている(髙坂, 2011, 2013)。また,恋人を欲しいと思わない青年は,恋人がいる青年や恋人を欲しいと思っている青年に比べ,アイデンティティの感覚を得られておらず,充実感も気力もないが,自分の意見が最善であると考えやすい傾向にあることが示されている(髙坂, 2011)。しかし,恋人を欲しいと思わない青年が一様にネガティブな特徴を有するわけではない。髙坂(2013)は,恋人を欲しいと思わない理由を「負担回避」,「自信なし」,「充実生活」,「意義不明」,「ひきずり」,「楽観予期」の6つに分類している。このうち,「自信なし」を主な理由とする者は,Erikson(1959 西平・中島訳 2011)が指摘しているように,親密な関係を恐れ,尻込みしているようなタイプである。一方,「楽観予期」を主な理由とする青年は,恋人がいる者と同等あるいはそれ以上に自我発達が進行し,コミュニケーションに対する自信をもち,友人関係も良好であることが示されている(髙坂, 2014)。
このように,自我発達やコミュニケーションの観点からみて,恋人を欲しいと思わない青年だからといって,必ずしもネガティブな特性を有するわけではないが,世間的に,恋人を欲しいと思わない青年は,否定的・批判的に見られることが多く,「恋愛は面倒くさい」という主張は,恋人ができないことに対する自己正当化であると断ずる者もいる(森川, 2015)。しかし,現在,恋人を欲しいと思っている/思っていないにかかわらず,青年は実に恋愛しにくい状況におかれており,しかも,その状況をつくった大人から批判されていると考えられる。その主な理由として,①恋愛に対するダブルバインド,②男女平等社会と男女不平等恋愛,③恋愛既視感と恋愛圏外感,④恋愛イリュージョンの喪失,⑤エンターテインメントの多様性,などが考えられる。
本話題提供では,恋人を欲しいと思わない青年に関する実態調査や研究成果を概観するとともに,青年が恋愛に向かいにくくなっている要因を検討することにより,現代青年の恋愛に対する「おとなしさ」について議論を深めていきたい。