12:10 〜 13:10
[EL5-01] 知っておきたい人材育成の基礎知識
キーワード:教育の困難性、因果プラン、教育における理論の働き
「教えることは難しい」、多くの人がそう考えています。何を隠そう大学教師としての私もその一人です。最近ではコロナ禍という追い打ちもあって、教えることの難易度はさらに上がったと思わざるを得ません。私たちはこの「教育の困難性」とどのように向き合っていけばよいのか、この点について皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
私自身が教育の困難性から逃れられないと述べましたが、一方では、教育学者のひとりとして、その困難性から抜け出す術を求められる立場でもあります。辻褄の合わないことになっています。結論を先取りするなら、困難性は解消されるではなく、引き受けるしかないものだと考えています。
もし教えることの困難性から抜け出すことができるとすれば、思い通りの教育を可能にする方法を見つけ出すしかないように思われます。ところが教育方法の完成版への探究は、たとえば紀元前4世紀頃にメノンという若者がソクラテスに問いかけた言葉にすでに始められています。二千数百年以上も前に始まった探究がいまだに続いているのです。
一方で、ルーマン(Luhman 2002/2004)という社会学者は、「テクノロジー欠如」こそが教育の特性なのだと言い切ります。「テクノロジー欠如」とは、要するに「熱いお湯(目的)を得たかったらヤカンに水を入れて火にかければよい(手段)」といった、いつでもどこでも妥当する一連の「目的―手段」の手続きは、教育に関しては存在していないということです。困難性は教えるという営みに内在している不可避の特性だと捉えられています。
しかし、「テクノロジー欠如」を指摘する一方で、ルーマンは教育者が経験の中で身につけた実践知には一定の意義があるとします。「こんな場合はこうすればうまくいくことがある」という経験知をルーマンは「因果プラン」と呼んでいます。この「因果プラン」によって教育実践は導かれているというのです。こうしてみると結局、ルーマンも“理論的なもの”に一定の意義を認める立場をとっていることになります。
ただし、ここからが重要です。ルーマンは、「因果プラン」が教育の成功を保障するものではない以上、それは常にバージョンアップされなければならないと考えます。教育者が常にバージョンアップに取り組む態度のことをルーマンは「アクラシア(Akrasia)」という言葉で表現しています。教育者としては忘れずにいたい言葉、心がけたい態度です。そして、この「アクラシア」こそが「教育の困難性」の引き受け方だといえます。
当日は、この「アクラシア」を進めるための事項を2点ほど確認していこうと考えています。一つ目は「リフレクション(reflection)」です。よく知られているように、「リフレクション」は経験に由来する私たちの学習をモデル化して提示するものです。教育者としての自己創出=熟達を可能にするこの「リフレクション」は「アラクシア」そのものであると言っても過言ではありません。
次に二つ目は、「因果プラン」のバージョンアップに欠かせない「理論」の働きについてです。「理論」には、「結果の予測」、「事実の説明・解釈」、「現象の整理」、「仮説の母体」になるという働きがあります(國分 1980)。「テクノロジー欠如」の中で「理論」を語るという齟齬を勘案しながら「理論」によって教育実践に実りがもたらされる様子をお示ししたいと考えています。
参考文献
・Luhman,N.(2002)/村上淳一(2004).社会の教育システム.東京大学出版会.
・國分康孝(1980).カウンセリングの理論.誠信書房.
私自身が教育の困難性から逃れられないと述べましたが、一方では、教育学者のひとりとして、その困難性から抜け出す術を求められる立場でもあります。辻褄の合わないことになっています。結論を先取りするなら、困難性は解消されるではなく、引き受けるしかないものだと考えています。
もし教えることの困難性から抜け出すことができるとすれば、思い通りの教育を可能にする方法を見つけ出すしかないように思われます。ところが教育方法の完成版への探究は、たとえば紀元前4世紀頃にメノンという若者がソクラテスに問いかけた言葉にすでに始められています。二千数百年以上も前に始まった探究がいまだに続いているのです。
一方で、ルーマン(Luhman 2002/2004)という社会学者は、「テクノロジー欠如」こそが教育の特性なのだと言い切ります。「テクノロジー欠如」とは、要するに「熱いお湯(目的)を得たかったらヤカンに水を入れて火にかければよい(手段)」といった、いつでもどこでも妥当する一連の「目的―手段」の手続きは、教育に関しては存在していないということです。困難性は教えるという営みに内在している不可避の特性だと捉えられています。
しかし、「テクノロジー欠如」を指摘する一方で、ルーマンは教育者が経験の中で身につけた実践知には一定の意義があるとします。「こんな場合はこうすればうまくいくことがある」という経験知をルーマンは「因果プラン」と呼んでいます。この「因果プラン」によって教育実践は導かれているというのです。こうしてみると結局、ルーマンも“理論的なもの”に一定の意義を認める立場をとっていることになります。
ただし、ここからが重要です。ルーマンは、「因果プラン」が教育の成功を保障するものではない以上、それは常にバージョンアップされなければならないと考えます。教育者が常にバージョンアップに取り組む態度のことをルーマンは「アクラシア(Akrasia)」という言葉で表現しています。教育者としては忘れずにいたい言葉、心がけたい態度です。そして、この「アクラシア」こそが「教育の困難性」の引き受け方だといえます。
当日は、この「アクラシア」を進めるための事項を2点ほど確認していこうと考えています。一つ目は「リフレクション(reflection)」です。よく知られているように、「リフレクション」は経験に由来する私たちの学習をモデル化して提示するものです。教育者としての自己創出=熟達を可能にするこの「リフレクション」は「アラクシア」そのものであると言っても過言ではありません。
次に二つ目は、「因果プラン」のバージョンアップに欠かせない「理論」の働きについてです。「理論」には、「結果の予測」、「事実の説明・解釈」、「現象の整理」、「仮説の母体」になるという働きがあります(國分 1980)。「テクノロジー欠如」の中で「理論」を語るという齟齬を勘案しながら「理論」によって教育実践に実りがもたらされる様子をお示ししたいと考えています。
参考文献
・Luhman,N.(2002)/村上淳一(2004).社会の教育システム.東京大学出版会.
・國分康孝(1980).カウンセリングの理論.誠信書房.