日本地球惑星科学連合2014年大会

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口頭発表

セッション記号 S (固体地球科学) » S-GL 地質学

[S-GL43_1PM1] 地域地質と構造発達史

2014年5月1日(木) 14:15 〜 15:30 411 (4F)

コンビーナ:*束田 和弘(名古屋大学博物館)、山縣 毅(駒澤大学総合教育研究部自然科学部門)、座長:斎藤 眞(独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)

14:30 〜 14:45

[SGL43-02] 南部北上山地,大船渡市甫嶺付近から見い出されたカンブリア紀のU-Pbジルコン年代を示すトーナル岩について

*土谷 信高1武田 朋代1佐々木 惇1足立 達朗2中野 伸彦2小山内 康人2足立 佳子3 (1.岩手大・教育、2.九州大・比文、3.新潟大・超域)

キーワード:北上, カンブリア紀, ジルコン, U-Pb年代, トーナル岩

南部北上帯の大船渡市東部の綾里付近には,前期白亜紀の大船渡層群に属する火山岩類とそれに貫入する斜長石石英閃緑斑岩の岩脈が分布している.大船渡層群に属する火山岩類は,安山岩~玄武岩および同質の火山岩類を主体とし,斜長石石英閃緑斑岩の岩脈に貫入されている.大船渡市東部の越喜来湾に面する甫嶺付近には,約40 mの範囲にわたって大船渡層群の火成岩類とは異質な珪長質火砕岩類とトーナル岩が分布する.これらは,大船渡層群に属すると考えられる安山岩および玄武岩のほか斜長石石英閃緑斑岩岩脈に貫かれており,数10cmから10mに至る大小様々なブロックとして産する.これらのブロックの主体をなすのは珪長質火砕岩類であり,トーナル岩は最大1×2 mのブロックとして3か所から見いだされるのみである.トーナル岩と珪長質火砕岩との関係は観察されない.甫嶺付近は,北部北上帯と南部北上帯の境界である早池峰東縁断層の南方延長部に相当することから,南部北上帯に属する古期岩類が前期白亜紀の大船渡層群の火山岩類に取り込まれて残存しているものと考えられる.珪長質火砕岩類は,破片状の石英,斜長石を主とし,角閃石仮像を伴うデイサイト質~流紋岩質の火山砕屑岩であり,しばしば砂岩を伴う.トーナル岩は斜長石・石英を主とし,デカッセイト組織を示す黒雲母と角閃石仮像と思われるアクチノ閃石細粒集合体,二次的な黄鉄鉱などからなり,カリ長石は認められない.全岩化学組成はSiO2に富み(73.1~73.4%),Pearce et al. (1984)による微量元素の特徴では火山弧花崗岩の領域に入るが,通常の火山弧花崗岩よりもK2O (0.72~1.27wt%), Rb (16~32ppm), Ba (91~97ppm)などのLIL元素に著しく乏しい特徴がある.以上の特徴から,大陸地殻物資の影響の少ない海洋性の未成熟な火山弧での島弧性火山活動に由来する可能性が高い.トーナル岩から分離されたジルコン結晶について,九州大学比較社会文化研究院のLA-ICPMS(Adachi et al., 2012)によってU-Pb年代を測定したところ,ジルコン8粒子8点の分析値から498±7 Maのコンコーディア年代が得られた.この年代はカンブリア紀最末期に相当し,同時代の花崗岩質岩としては,Sakashima et al. (2003)によってジルコンU-Pb SHRIMP年代が得られた日立変成岩類中の大雄院花崗岩(490.8±6.1 Ma), 九州肥後帯の氷川花崗岩(502.5±9.6 Ma)などがある.また日立変成岩からは,田切ほか(2010)により変成ポーフィリー(505.1±4.4 Ma), 変成花崗岩礫(499.6±5.6 Ma),およびTagiri et al. (2011)により長石質片岩(510.0±4.0 Ma)のジルコンU-Pb SHRIMP年代が得られている.これらの花崗岩質岩の年代は,日本列島の沈み込み起源の花崗岩としては最も古いものである.これらは,原日本のカンブリア紀の海洋性島弧-海溝系で形成された島弧性の花崗岩類であると考えられる(磯﨑ほか,2010).一方南部北上山地においては,下條ほか(2010)による早池峰複合岩類,神楽複合岩類のトロニエム岩から466±6 MaのジルコンU-Pb SHRIMP年代が得られている.また佐々木ほか(2013)は,LA-ICPMSによるジルコンU-Pb年代の検討から,氷上花崗岩類の固結年代が約450 Maであることを明らかにした.さらに小山内ほか(2014)は,LA-ICPMSによるジルコンU-Pb年代の検討から,九州黒瀬川構造帯の花崗岩類の活動年代を446~472 Maとした.以上のことから,原日本の古生代前期の花崗岩活動には,約500 Maと約450 Maの2回のイベントがあったと考えることができる.これらの花崗岩類の岩石学的性質を明らかにすることは,古生代前期における原日本がどの様なテクトニクス場に置かれていたのかを解明するために重要であると考えられる.