18:15 〜 19:30
[SSS30-P01] 宮城沖では大中小地震が東進し一部が3.11震源に達していた、ならば岩手北部沖から十勝沖も同じか~岩手中部沖は津波装置?~
プレート境界面では低温のプレートの両側に、高温部が形成され互いに引き寄せ合うことで境界面近辺は常に圧縮されている。ウェッジは西進する沈み込みプレートに乗り、海岸線以西の部分から東向きの力を受けている(1)。簡単な実験で宮城沖を再現した。プレート境界の割れが深部より始まり、坂下ですべりを発生させながら割れ前線が浅部へ向けて時間を費やしゆっくりと進んだ。終には浅部の相当範囲の先端部が一気にはがれ、それをきっかけに超巨大地震に比すべき全域の「一斉すべり」が発生し一連のイベントが終了した。これを1サイクル一千年と考えた(2)。宮城沖の地震は震源の位置が次第にプレート境界を登坂していた。2005年の地震の前後では、小地震発生範囲の先頭がじわじわと東進し、2010年11月に3.11の震源を越えていた(3)。
したがって宮城沖のモデルは以下の様なもので、実験でほぼ再現された。M7クラスの地震が震源を東に移動させながら数十年に一度発生し、その度に地震の後方が深部まですべりを起こす。先行する小地震が割れ前線を形成する。割れ前線がしかるべき位置に達すれば一斉すべりが起きる。このモデルの特徴は以下の三つの大問題、a.特定の範囲内で繰り返し発生するものと一般に思われていること b.その度に大すべりを起こす歪の原因が不明であること c.行き着くところは浅部の一気破壊だったこと、に対し解答を一度に与えられることである。
宮城沖(MY)(Fig.1)を参考とし岩手中部沖(IC),岩手北部沖(IH),青森東方沖(AT),十勝沖(TK)を考えたい。(IH)(AT)では1968年十勝沖地震、1994年三陸はるか沖地震が発生している。(4)のすべり量分布図は興味深い。破壊開始点(震源)と主破壊域が坂上坂下の関係は理解できるが相当離れているのは特徴で解明する必要があるが。主破壊域は最も海溝寄りのすべりのピークと解釈する。1968年地震は大すべり範囲が南北二箇所あり、南側の主破壊域は1994年地震の主破壊域の坂下に位置し注目される。1968年地震は、1994年地震の一つ前の地震を同伴したようである。付近で過去に発生した地震(5)は1968年地震か、1994年地震の一つ前の地震の坂下に主破壊域があった可能性がある。だから(IH)(AT)は(MY)と同様の道を歩んでいると考える。浅部はすべれないのではなく、タイミングを待っているだけであろう。
(TK)では1952年十勝沖地震、2003年十勝沖地震が発生した。震源は1952年地震が坂上である。しかし(6)(7)(8)のコンターによれば、主破壊域は2003年地震が坂上であった可能性が大きい。ここでも地震が登坂していると考えておいた方が良い。
(IC)は少々事情が異なる。北緯39~40度,東経143~144度の範囲は1923年以降、中小地震の多発地帯であり、プレート内地震が多いことを伺わせる(12)。下盤が地震により常時潰れて物質が上にはみ出し付加体を作っていることになる。下盤が短くなるから上盤は相対的に長くなり、膨らんで表面付近は伸張場になろう。そして海溝に押し寄せるので急な崖を形成し崩落する。これは(9)で示される(IC)の地形を理由とともに説明していることになる。表面付近の伸張場は横ずれ断層型の発生(10)の理由となろう。崩落が容易な崖の構造は、周辺の地震に敏感に反応する上に効率的な津波発生装置になっている可能性がある。(11)の成果に調和的である。
参考文献:(1)間瀬/JpGU2012/SCG67-P06 (2)間瀬/SSJ2012/P2-75 (3)間瀬/JpGU2013/SSS28-P09 (4)永井ら(2000)/三陸における再来大地震の震源過程の比較研究 /東大震研/http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/YOTIKYO/11seikahoukoku/koukai/r11.5fig1.JPG
(5)Wikipedia「三陸沖北部地震」(6)佐竹ら(2004)/1952年・2003年十勝沖地震の津波波源の比較-1952年津波の再検討に基づいて-/産総研/SSJ2004年大会
(7)八木(2004)/2003年9月26日十勝沖地震(Mjma 8.0)の破壊伝搬の様子EPS分/建築研 (8)山中・菊地(2003)/遠地実体波解析9月26日十勝沖地震(Mj8.0)/東大震研/EIC地震学ノートNo.139 (9)泉ら(2012)/150mグリッドDEMから作成した日本海溝付近の3D海底地形/海保海洋情報部/研究報告第48号 (10)中島(1974)/1968年十勝沖地震の前後における発震機構の変化/北大/地球物理学研究報告 (11)市原ら(2013)/東日本大震災で発生した津波が巨大化した原因となった場所を特定/JAMSTEC/2013年10月8日 (12)気象庁/地震・火山月報(防災編)/平成16年6月/6月12日岩手県沖の地震/震央分布図、断面図
したがって宮城沖のモデルは以下の様なもので、実験でほぼ再現された。M7クラスの地震が震源を東に移動させながら数十年に一度発生し、その度に地震の後方が深部まですべりを起こす。先行する小地震が割れ前線を形成する。割れ前線がしかるべき位置に達すれば一斉すべりが起きる。このモデルの特徴は以下の三つの大問題、a.特定の範囲内で繰り返し発生するものと一般に思われていること b.その度に大すべりを起こす歪の原因が不明であること c.行き着くところは浅部の一気破壊だったこと、に対し解答を一度に与えられることである。
宮城沖(MY)(Fig.1)を参考とし岩手中部沖(IC),岩手北部沖(IH),青森東方沖(AT),十勝沖(TK)を考えたい。(IH)(AT)では1968年十勝沖地震、1994年三陸はるか沖地震が発生している。(4)のすべり量分布図は興味深い。破壊開始点(震源)と主破壊域が坂上坂下の関係は理解できるが相当離れているのは特徴で解明する必要があるが。主破壊域は最も海溝寄りのすべりのピークと解釈する。1968年地震は大すべり範囲が南北二箇所あり、南側の主破壊域は1994年地震の主破壊域の坂下に位置し注目される。1968年地震は、1994年地震の一つ前の地震を同伴したようである。付近で過去に発生した地震(5)は1968年地震か、1994年地震の一つ前の地震の坂下に主破壊域があった可能性がある。だから(IH)(AT)は(MY)と同様の道を歩んでいると考える。浅部はすべれないのではなく、タイミングを待っているだけであろう。
(TK)では1952年十勝沖地震、2003年十勝沖地震が発生した。震源は1952年地震が坂上である。しかし(6)(7)(8)のコンターによれば、主破壊域は2003年地震が坂上であった可能性が大きい。ここでも地震が登坂していると考えておいた方が良い。
(IC)は少々事情が異なる。北緯39~40度,東経143~144度の範囲は1923年以降、中小地震の多発地帯であり、プレート内地震が多いことを伺わせる(12)。下盤が地震により常時潰れて物質が上にはみ出し付加体を作っていることになる。下盤が短くなるから上盤は相対的に長くなり、膨らんで表面付近は伸張場になろう。そして海溝に押し寄せるので急な崖を形成し崩落する。これは(9)で示される(IC)の地形を理由とともに説明していることになる。表面付近の伸張場は横ずれ断層型の発生(10)の理由となろう。崩落が容易な崖の構造は、周辺の地震に敏感に反応する上に効率的な津波発生装置になっている可能性がある。(11)の成果に調和的である。
参考文献:(1)間瀬/JpGU2012/SCG67-P06 (2)間瀬/SSJ2012/P2-75 (3)間瀬/JpGU2013/SSS28-P09 (4)永井ら(2000)/三陸における再来大地震の震源過程の比較研究 /東大震研/http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/YOTIKYO/11seikahoukoku/koukai/r11.5fig1.JPG
(5)Wikipedia「三陸沖北部地震」(6)佐竹ら(2004)/1952年・2003年十勝沖地震の津波波源の比較-1952年津波の再検討に基づいて-/産総研/SSJ2004年大会
(7)八木(2004)/2003年9月26日十勝沖地震(Mjma 8.0)の破壊伝搬の様子EPS分/建築研 (8)山中・菊地(2003)/遠地実体波解析9月26日十勝沖地震(Mj8.0)/東大震研/EIC地震学ノートNo.139 (9)泉ら(2012)/150mグリッドDEMから作成した日本海溝付近の3D海底地形/海保海洋情報部/研究報告第48号 (10)中島(1974)/1968年十勝沖地震の前後における発震機構の変化/北大/地球物理学研究報告 (11)市原ら(2013)/東日本大震災で発生した津波が巨大化した原因となった場所を特定/JAMSTEC/2013年10月8日 (12)気象庁/地震・火山月報(防災編)/平成16年6月/6月12日岩手県沖の地震/震央分布図、断面図