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★ [HDS07-02] 東日本大震災の津波被害を受けた気仙沼市舞根地区における生態系を基盤とした防災・減災に対する議論について
2011年3月11日にマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生した。それにともない史上最大規模の津波が各地を襲った。この大規模な災害を受け、日本政府は東日本大震災復興構想会議を組織し、2011年6月に「復興への提言~悲惨のなかの希望~」(http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/fukkouhenoteigen.pdf)がまとめられた。そこでは、防災についての私たちの考えを変える必要があることが示されていた。例えば、岩手県の田老地区では、高さ10mの防潮堤が整備され、1960年のチリ地震の津波の際には効果を発揮した。しかし、しかし東日本大震災の津波によって破壊され、200人以上の人々が犠牲になり、1000棟以上の建物が被災した。私たちは自然災害を完全に防ぐことはできないことを認識しなければならない。
気仙沼市は、津波とその後の火災で1000名以上の死者を出し、依然として230人が行方不明となっており、宮城県の中でも最も大きな被害を受けた地域の一つである。気仙沼市は漁業で有名で、特にカツオやサンマの水揚げで知られている。しかし、2005年時点の漁業の就業者数は2667人に過ぎず、すべての就業者数に占める割合はたったの7.4%である。一方で、埋立地の気仙沼市中心部に水産加工業の工場が集積し、それらが壊滅的な被害を受けた。七十七銀行の計算によれば気仙沼市の総生産の半分、3分の1の雇用が失われたということであった。筆者は最も古い地形図である1913年の地形図を用いて当時の土地利用のうち、今回の津波で被害を受けた土地利用の比率を気仙沼市中心部で分析した。その結果、被災した土地利用の49%は水田、17%は開放水域、10%は都市的土地利用、8%は針葉樹林、7%は海岸であることが明らかになった。開放水域のほとんどはその後埋め立てられた海域であろう。また、針葉樹林は海岸線のマツ林であると考えられる。
宮城県は、今回の津波が12mに達したところがあるにもかかわらず、高さ5mから11.8mの防潮堤の計画を明らかにしてきた。仙台湾地域においては25kmにも及ぶほとんどの防潮堤が整備されつつある。しかし、気仙沼市の舞根地区は、10mの防潮堤の計画に対し、気仙沼市長を通じて反対する意向を表明した。それは政府が100%補助する高台移転事業によりほとんどの被災した世帯が高台に移転するためである。舞根地区は、最初に高台移転を決定し、政府に対して要望した地域であった。
舞根地区は、震災以前から森は海の恋人運動と呼ばれる植林活動で知られていた。1989年には牡蠣養殖業を営む畠山重篤氏が、海の水質を守るために周囲の丘陵地に植林を始めた。彼の活動は、舞根地域の住民による防潮堤計画反対に影響を及ぼしたと言えるだろう。また、舞根地区には強固なコミュニティが存在しており、震災の際には地域内の住民が4名なくなったものの住民同士が声を掛け合い避難したことが明らかになっている。被災直後の2011年4月半ばには、既に高台移転のための期成同盟会が設立され、月に1度の定期的な会合が開催されてきた。発表では、3年間の調査を踏まえ、舞根地区における生態系を基盤とした防災・減災について議論したい。
気仙沼市は、津波とその後の火災で1000名以上の死者を出し、依然として230人が行方不明となっており、宮城県の中でも最も大きな被害を受けた地域の一つである。気仙沼市は漁業で有名で、特にカツオやサンマの水揚げで知られている。しかし、2005年時点の漁業の就業者数は2667人に過ぎず、すべての就業者数に占める割合はたったの7.4%である。一方で、埋立地の気仙沼市中心部に水産加工業の工場が集積し、それらが壊滅的な被害を受けた。七十七銀行の計算によれば気仙沼市の総生産の半分、3分の1の雇用が失われたということであった。筆者は最も古い地形図である1913年の地形図を用いて当時の土地利用のうち、今回の津波で被害を受けた土地利用の比率を気仙沼市中心部で分析した。その結果、被災した土地利用の49%は水田、17%は開放水域、10%は都市的土地利用、8%は針葉樹林、7%は海岸であることが明らかになった。開放水域のほとんどはその後埋め立てられた海域であろう。また、針葉樹林は海岸線のマツ林であると考えられる。
宮城県は、今回の津波が12mに達したところがあるにもかかわらず、高さ5mから11.8mの防潮堤の計画を明らかにしてきた。仙台湾地域においては25kmにも及ぶほとんどの防潮堤が整備されつつある。しかし、気仙沼市の舞根地区は、10mの防潮堤の計画に対し、気仙沼市長を通じて反対する意向を表明した。それは政府が100%補助する高台移転事業によりほとんどの被災した世帯が高台に移転するためである。舞根地区は、最初に高台移転を決定し、政府に対して要望した地域であった。
舞根地区は、震災以前から森は海の恋人運動と呼ばれる植林活動で知られていた。1989年には牡蠣養殖業を営む畠山重篤氏が、海の水質を守るために周囲の丘陵地に植林を始めた。彼の活動は、舞根地域の住民による防潮堤計画反対に影響を及ぼしたと言えるだろう。また、舞根地区には強固なコミュニティが存在しており、震災の際には地域内の住民が4名なくなったものの住民同士が声を掛け合い避難したことが明らかになっている。被災直後の2011年4月半ばには、既に高台移転のための期成同盟会が設立され、月に1度の定期的な会合が開催されてきた。発表では、3年間の調査を踏まえ、舞根地区における生態系を基盤とした防災・減災について議論したい。