日本地球惑星科学連合2016年大会

講演情報

ポスター発表

セッション記号 H (地球人間圏科学) » H-DS 防災地球科学

[H-DS19] 津波とその予測

2016年5月25日(水) 17:15 〜 18:30 ポスター会場 (国際展示場 6ホール)

コンビーナ:*行谷 佑一(国立研究開発法人 産業技術総合研究所 活断層・火山研究部門)、今井 健太郎(国立研究開発法人 海洋研究開発機構)

17:15 〜 18:30

[HDS19-P05] 寛保元年(1741)渡島大島の噴火に伴う津波の北海道江差、松前地方の海岸での浸水標高の精密調査

*都司 嘉宣1畔柳 陽介2成田 裕也2木南 孝博3白石 睦弥4佐藤 雅美5芳賀 弥生5今村 文彦5 (1.公益財団法人深田地質研究所、2.パシフィックコンサルタンツ(株)、3.頸城技研、4.北日本歴史災害研究所、5.東北大災害科学国際研究所)

キーワード:火山活動による津波、津波高の精密測量、寛保渡島大島津波

[はじめに] 寛保元年7月18日(西暦1741年8月28日)の未明、北海道江差沖の渡島大島の噴火活動に伴う津波は、松前地方および 江差地方の海岸に大きな津波被害をもたらした。この津波の北海道の海岸での浸水・遡上高さの推定や調査は、羽鳥(1984)、今村ら (1998)、都司ら(2002)によって既に行われている。
[本研究の着眼点] 本研究では上述のような先行研究があることを念頭において、漫然と先行研究と同様な方法で調査に当たるのではなく、それらの先行研究では行われなかった手 法によって津波浸水標高の調査を進めることを意識した。すなわち、本研究では津波による村ごとの家屋被災数が、その村の全戸数の何%に相当するかに注目し、これが数%以下ならその集落の地盤高さが最も低い場所の標高を測定することとした。逆にほぼ100%が被災した場合には集落市街地で最も高い位置を測ることとした。集落毎の流出家屋、および死者の数は、松前藩によって、被災の後数日以内に各集落毎に集計整理されている。一方『津軽一統志』によって被災した大多数の村毎の総戸数や人口を知ることが出来る。被害数と家屋、人口の両方がわかると、流失家屋と死者の総数に対する割合が推定できる。寛保津波当時の各村の集落の居 住地の形態については、明治・大正期の五万分の一地図の初版に表示された集落の広がりから判断した。江戸期と明治大正期とでは差異はあれども、おおまかな傾向は把握できると考えたからである。
[神社、寺院の情報から] 北海道側の沿岸の集落の被災状況を記録した文献にはしばしば、ある集落のほぼ全戸が流失したと記されたものがある。一方、北海道の江差、松前地方の海岸で は、この津波の発生による古い時代に神社が建てられた場合、その神社は集落の一番標高の高い位置に建てられていることが多い。すると、「全戸が流失した集 落」では、少なくとも神社のすぐ前面までは海水が浸水したと考えられる。この場合、その神社と集落最上端の間の土地の標高は津波浸水(あるいは遡上)の下限値である。この場合、下限値とはいえ従来の「家屋浸水であるから地面標高プラス2m」式の判断(信頼度C)より信頼度は高いと判定される。本稿ではこの場合の信頼度はBとした。
[現地での測量]我々はこうして知り得た各集落の被災状況の情報から、浸水限界線を推定し、現地でその限界線上にGPS測量器械を据え付け、そこで標 高を測定した。従来、被災状況から、集落の中心点の標高を測定して、被害程度から津波標高を推定していた調査より、信頼度の高い津波の浸水高さ値を得たと 考えることが出来る。上述の集落最奥の神社の場合もこの例の一つである。このようにして得た数値は、たとえ津波浸水の下限値しか判明しない場合であっても、その下限値が確かであることから信頼度はBとした。
[結果]以上のような方針によって我々は、2015年12月14日~16日にかけて、北海道熊石(現八雲町熊石)を起点とし、お よそ30地点を測定して、最後は松前町に至り調査を終了した。津波浸水、あるいは遡上高さの調査結果を図に示す。図で白丸を付した地点は、測定結果の信頼 度の高い地点で(信頼度A,B)、津波浸水・遡上高さを示す棒グラフでは太線が描かれている。黒丸を付した地点は、被災戸数の全戸数に対する割合による測定点の決定による測定法 が適用で きず、集落の中心代表点の標高値と被害状況から地上冠水厚さを推定する従来の方法にとどまるなど、信頼度の劣る点(信頼度C,D)である。
なお、図で上ノ国町石崎の館野の19.4mというのは「突き出た岬状地形」の上を津波が越えたという地元伝承に基づく。この場所には、1440年から16世紀ころまで比石館とよばれる城があり、16世紀の中国製の陶片が出土する場所で、津波による浸食はこの城の廃止以後のことと考えられる。現状は津波によって岬状地形は前後両面が浸食によって削られ、車一台が通過できる狭い堤防状の地形である。これが1440年以前の未知の津波によるものであって、これ以後にわざわざここが築城の地と選定されたとは考えがたい。よってこの伝承に言う津波とは寛保津波であると推定する。
謝辞 :本稿は,原子力規制庁からの委託業務「平成27年度原子力施設等防災対策等委託費(日本海沿岸の歴史津波記録の調査)事業」(代表:東北大学 今村文彦)の成果の一部をとりまとめたものである.