日本地球惑星科学連合2019年大会

講演情報

[J] ポスター発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-IS ジョイント

[M-IS17] 歴史学×地球惑星科学

2019年5月27日(月) 15:30 〜 17:00 ポスター会場 (幕張メッセ国際展示場 8ホール)

コンビーナ:加納 靖之(東京大学地震研究所)、芳村 圭(東京大学生産技術研究所)、磯部 洋明(京都市立芸術大学美術学部)、岩橋 清美(国文学研究資料館)

[MIS17-P04] 絵図にみる1707年富士山宝永噴火後の降灰除去の実態

*大邑 潤三1 (1.京都大学防災研究所附属地震予知研究センター)

キーワード:富士火山、古地図、火山灰、復興、GIS

1707(宝永4)年に発生した富士山宝永噴火では,大量の火山灰(宝永スコリア)が富士山東麓部に降り積もった.駿東郡御厨地方(現静岡県東部)の村々は1mほどの火山灰に覆われたため,住民の手によって火山灰の除去作業(砂除け)が行われていった.本事例に関しては幕府の対応や復興について,永原(2002)が詳細にまとめているが,下流にあたる神奈川県酒匂川の治水に関するものが多く,史料の制約もあって御厨地方の砂除けの実態についてはあまりわかっていない.本研究ではこれまであまり用いられていない絵図史料を用いて,砂除けがどのように進められていったかを明らかにする.
本地域には降灰後の復興過程で作成された村絵図が数点存在する.これらは享保期(1716~1736)に作成されたものと思われる.田畑の別や道路,河川,村境などが記されているほか,「亥砂埋」つまり亥年の噴火による降灰で埋まった場所が描かれている.GISによるジオリファレンスなどの技術も用いて近現代の地図と比較すると,河川から離れた微高地や村の縁辺部に「亥砂埋」が多いことがわかった.前者は文献に火山灰を河川に捨てたとあることから河川沿いから除去が開始されたためと思われ,また畑より田の復旧を優先したことも理由として考えられる.後者は村の周辺部の野原である場合が多く,面積も大きいため復旧が後回しになっていたと推測される.