JpGU-AGU Joint Meeting 2020

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[E] ポスター発表

セッション記号 H (地球人間圏科学) » H-CG 地球人間圏科学複合領域・一般

[H-CG21] 景観評価の国際比較

コンビーナ:青木 陽二(放送大学)

[HCG21-P05] 1549年から1858年(外交官滞在)までに来訪した西洋人の日本風景の記述

*青木 陽二1近田 文弘2 (1.放送大学、2.国立科学博物館)

キーワード:風景記述、1549-1858年、西洋人訪問者

西洋人来訪者による日本の風景の評価(1549-1858)初来訪者から外交官の滞在まで

青木陽二:放送大学学生

近田弘文:国立科学博物館名誉研究員

始めに

この報告は、1549年に種子島に最初に到着して以来、日本の「風景」について訪問者が書き残した記述をリストし、要約した(表1)。「風景」は、景色や景観の印象という概念に似ていると定義できる。日本の風景の評価は、古代から中国文化の影響を受けていた。例えば、14世紀に日本に伝わった「八景」という見方は10世紀に中国で生まれ、5世紀以上にわたって日本の景観の評価に影響を与えた(青木他2003)。日本は、江戸時代の終わり、つまり19世紀まで、西洋人に閉鎖されていたため、その影響は開国まで続きました。そして、それまで日本人は、洗練された中国の詩として、中国の風景観察の方法を使用した。開国後、日本人は西洋文化と景観評価の方法を受け入れ始めた。日本人は、西洋の自然科学の普及により自然現象を理解した。西洋諸国は、16世紀から19世紀にかけて風景画の期間を経験し、日本の風景はこれと似た美しさに属すると時々述べていたが、日本人はその評価を理解することは無かった。西洋からの日本への訪問者の記述を研究することにより、彼らが日本の風景をどのように理解し、評価したかを明らかにし、かつて存在した日本の風景美を示すものである。

最初の訪問者から外交官の滞在まで

評価された視対象は表2に示した。
最初の訪問者から日本の開国まで
最初の期間は、1549年に最初のポルトガル人、メンデスピントが種子島に到着したことに始まり、1853年にペリーとの交渉による開国までである。宣教活動により、西日本に多くの信者を獲得した。国内戦争は時々日本人の生活だけでなく西洋人の生活をも脅かしたが、彼らの活動の結果として多くの教会が設立された。しかし、17世紀以降の日本政府は、国の安定考え、キリスト教を排除した。その期間は、西洋人は植物の分類法や風景画には、まだ慣れていなかった。彼らは、日本の自然風景や植生、日本風景の顕著な特徴について記述しなかった。鎖国期間、即ち江戸時代に、ドイツ人やスウェーデン人を含むオランダ人が長崎から江戸へと旅行した。彼らの何人かは植物の分類学を知り、日本の景観の特徴が植物の多様性に恵まれていることを発見した。この期間に、ロシアは海岸から日本の風景を調査し、アイゾアフスキーの絵画に関連して好ましい印象を見つけた。残念ながら、日本政府は時々彼らに会い、ロシア人を囚人として逮捕した。彼らもまた、日本の風景の美しさについても記述した。
外交官の滞在まで
米国とロシアは、1853年の日本の開国を交渉するために訪れた。軍の一部のメンバーは日本語を理解でき、一部のメンバーは植物の分類法を知っていた。彼らは、風景と植生をより正確に記述することができた。さらに、軍隊には風景画家が同行していたので、日本の植生を詳細に報告することができた。北海道でよく知られた植生を楽しむ人もいれば、日本の風景の地形の美しさを賞賛する人もいた。

謝辞

ハル大学のジェイ・アップルトン教授が「風景の体験」の重要性を説明したことに感謝し、東京工業大学の渡辺貴介教授が西洋旅行者の記述を解説してくれたことに感謝する。旅行者の詳細な情報と彼らの記述について、庄田元男氏と他の多くの翻訳者に感謝する。