[O04-P01] 「鶴村日記」からみた江戸時代の石川県の天気-夏のない年1816年と天保の飢饉1836年の考察
キーワード:鶴村日記、天保の飢饉、古文書、全天日射量
研究の動機
過去4年間「関口日記」「二條家内々御番所日次記」「妙法院日次記」「守屋舎人日帳」「弘前藩庁日記」に記述された天気を分析した。
そこで、今年は「鶴村日記」を分析した。「鶴村日記」とは、江戸時代の石川県の儒学者、金子鶴村が書き残した1801年(文化4年)から1838年(天保9年)までの災害、文化、生活等の記録である。 研究の目的
(1)過年度に調べた「関口日記」「二條家内々御番所日次記」「妙法院日次記」「守屋舎人日帳」「弘前藩庁日記」と合わせてデータベースを作る。
(2)インドネシアのタンボラ火山の1812年からの噴火の影響で「夏のない年」と言われた1816年と、天保の飢饉で一番被害が苛烈であった1836年を比較検証する。 研究の方法
天気は現在の気象庁の分類に近づけて、雪>雨>曇>晴れと判別した。1年の1/3の欠測のある年は集計から削除した。ただし、1836年を検討する際は、欠測のない5月~7月、及び9月のみデータを使った。
取得したデータは21年間で、7,148日だった。 データ1
鶴村日記の天気の全期間の出現率と、タンボラ火山の噴火を含む期間である1812年から1816年を算出した。火山の噴火期間は晴れの出現率が低下し、雨の出現率が上昇していることが分かった。
また、1836年の天保の大飢饉においてはさらに晴れの出現率が低下し、雨の出現率が大幅に増えたことが分かる。 データ2
1808~1832年の天気の出現率を季節ごとにグラフにすると、タンボラ火山の噴火の続く、夏の期間の雨の出現率が晴れの出現率を上回っていることがわかる。 データ3
4つの古文書で1816年と1836年の5月から9月の天気を比べると、7月の曇りの出現率が高いことが共通している。
1816年と1836年の違いは、1816年の8月の晴れの出現率の持ち直しが顕著である。 データ4
雷の発生率を四季でみると、1816年の夏の雷は前後の年に比べて減少している。一方、秋は1816年が一番高く、大陸からの季節風の影響の可能性が高い。
データ5
国立情報学研究所の市野美夏さんの論文を参考に天気階級と全天日射量を計算して比較した。市野さんの論文に倣い、日記天気階級は(1)晴れ、(2)曇り、(3)雨天・雪の3つに分類した。そして、現代の気象庁データの平均から得られた地上の全天日射量Qd、地理的データ及び天候から得られるQsを使い、qを求める。
qは地球上にそそぐ太陽のエネルギーの減衰する割合を表している。
求めたQsと天気階級の積を平均したものがQeである。このQeを平年値と比較する。
古文書の天候の情報から毎年の全天日射量に換算し、複数年で比較したのがグラフ6で、1816年、1836年のいずれも1821年から1850年の平均値より低い量になっている。つまり、この2年に関しては、年間通して、全天日射量が低く、寒い時期が続き、農作物などへの影響があったことが読み取れる。 考察
(1)データ1のように、タンボラ火山の噴火活動期の1812年~1816年の晴れの出現率は36.12%で、全期間より1.88%低いことから、日照時間が低下し気温も低かった可能性がある。
さらに、データ2から、1816年は鶴村日記の夏から冬において、雨の出現率が晴れの出現率を上回る。夏や秋の気温が上昇しない年だったと考えられる。
(2)天保の飢饉は特に東北の冷害が深刻だったとされるが、調査した古文書の緯度があがるにつれて1816年と1836年の晴れの出現率の差が大きいことがわかった。
(3)鶴村日記において、 1821年から1850年までの全天日射量の平均と、1816年と1836年の夏の全天日射量を比較すると、両年とも通年で全天日射量が低いことから、気温も低下していたことを示唆する。 まとめ
(1) 「鶴村日記」のタンボラ火山の噴火活動期の晴れの出現率は36.31%で、全期間より1.71%低く、日照時間が低下し気温も低下した可能性がある。
(2) 天保の飢饉は特に東北の冷害が深刻だったとされるが、古文書の書かれた地点の緯度が上がるにつれて、1816年と1836年の晴れの出現率の差が大きくなっていく。
(3)「鶴村日記」の全天日射量をみると、1816年、1836年のいずれも1821年から1850年の平均値より低い量になっていた。
つまり、この2年に関しては、年間通して、全天日射量が低く、寒い時期が続いたことがわかる。 今後の課題
「鯖江藩日記」(福井)をデータ化してデータベースを作り、気象変動を調べて、本年までの分析を裏づけるとともに、オリジナルな全天日射量の計算式を作り、江戸時代の日射量を算出する。
過去4年間「関口日記」「二條家内々御番所日次記」「妙法院日次記」「守屋舎人日帳」「弘前藩庁日記」に記述された天気を分析した。
そこで、今年は「鶴村日記」を分析した。「鶴村日記」とは、江戸時代の石川県の儒学者、金子鶴村が書き残した1801年(文化4年)から1838年(天保9年)までの災害、文化、生活等の記録である。 研究の目的
(1)過年度に調べた「関口日記」「二條家内々御番所日次記」「妙法院日次記」「守屋舎人日帳」「弘前藩庁日記」と合わせてデータベースを作る。
(2)インドネシアのタンボラ火山の1812年からの噴火の影響で「夏のない年」と言われた1816年と、天保の飢饉で一番被害が苛烈であった1836年を比較検証する。 研究の方法
天気は現在の気象庁の分類に近づけて、雪>雨>曇>晴れと判別した。1年の1/3の欠測のある年は集計から削除した。ただし、1836年を検討する際は、欠測のない5月~7月、及び9月のみデータを使った。
取得したデータは21年間で、7,148日だった。 データ1
鶴村日記の天気の全期間の出現率と、タンボラ火山の噴火を含む期間である1812年から1816年を算出した。火山の噴火期間は晴れの出現率が低下し、雨の出現率が上昇していることが分かった。
また、1836年の天保の大飢饉においてはさらに晴れの出現率が低下し、雨の出現率が大幅に増えたことが分かる。 データ2
1808~1832年の天気の出現率を季節ごとにグラフにすると、タンボラ火山の噴火の続く、夏の期間の雨の出現率が晴れの出現率を上回っていることがわかる。 データ3
4つの古文書で1816年と1836年の5月から9月の天気を比べると、7月の曇りの出現率が高いことが共通している。
1816年と1836年の違いは、1816年の8月の晴れの出現率の持ち直しが顕著である。 データ4
雷の発生率を四季でみると、1816年の夏の雷は前後の年に比べて減少している。一方、秋は1816年が一番高く、大陸からの季節風の影響の可能性が高い。
データ5
国立情報学研究所の市野美夏さんの論文を参考に天気階級と全天日射量を計算して比較した。市野さんの論文に倣い、日記天気階級は(1)晴れ、(2)曇り、(3)雨天・雪の3つに分類した。そして、現代の気象庁データの平均から得られた地上の全天日射量Qd、地理的データ及び天候から得られるQsを使い、qを求める。
qは地球上にそそぐ太陽のエネルギーの減衰する割合を表している。
求めたQsと天気階級の積を平均したものがQeである。このQeを平年値と比較する。
古文書の天候の情報から毎年の全天日射量に換算し、複数年で比較したのがグラフ6で、1816年、1836年のいずれも1821年から1850年の平均値より低い量になっている。つまり、この2年に関しては、年間通して、全天日射量が低く、寒い時期が続き、農作物などへの影響があったことが読み取れる。 考察
(1)データ1のように、タンボラ火山の噴火活動期の1812年~1816年の晴れの出現率は36.12%で、全期間より1.88%低いことから、日照時間が低下し気温も低かった可能性がある。
さらに、データ2から、1816年は鶴村日記の夏から冬において、雨の出現率が晴れの出現率を上回る。夏や秋の気温が上昇しない年だったと考えられる。
(2)天保の飢饉は特に東北の冷害が深刻だったとされるが、調査した古文書の緯度があがるにつれて1816年と1836年の晴れの出現率の差が大きいことがわかった。
(3)鶴村日記において、 1821年から1850年までの全天日射量の平均と、1816年と1836年の夏の全天日射量を比較すると、両年とも通年で全天日射量が低いことから、気温も低下していたことを示唆する。 まとめ
(1) 「鶴村日記」のタンボラ火山の噴火活動期の晴れの出現率は36.31%で、全期間より1.71%低く、日照時間が低下し気温も低下した可能性がある。
(2) 天保の飢饉は特に東北の冷害が深刻だったとされるが、古文書の書かれた地点の緯度が上がるにつれて、1816年と1836年の晴れの出現率の差が大きくなっていく。
(3)「鶴村日記」の全天日射量をみると、1816年、1836年のいずれも1821年から1850年の平均値より低い量になっていた。
つまり、この2年に関しては、年間通して、全天日射量が低く、寒い時期が続いたことがわかる。 今後の課題
「鯖江藩日記」(福井)をデータ化してデータベースを作り、気象変動を調べて、本年までの分析を裏づけるとともに、オリジナルな全天日射量の計算式を作り、江戸時代の日射量を算出する。