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[SVC27-P01] 30年ぶりに掘り出された被災車両と雲仙普賢岳1991年火砕サージ堆積物の特徴
キーワード:火砕サージ、火山災害、防災教育
43名の死者が出た雲仙普賢岳の噴火災害から30年の節目に、地元では被災地の整備計画が立てられ工事が行われている。2021年2月8日の工事では、30年前の当時のままにある被災車両4台について掘り起こしが行われた。車両は今後火山灰などの土が払われ、コンクリートの土台に乗せ展示する方向で整備が進められる。今回のこの掘り起しに際し、重機で車両が引き揚げられたことから、被災後調査されていなかった車両全体の損傷状況及び車体の直下や周辺に堆積する1991年火砕サージ堆積物を調査する機会を得たのでこれについて報告する。
調査は島原市北上木場町の当時「定点」と呼ばれた報道陣が多くいた場所で、1991年6月3日の火砕流発生に伴い、火砕サージによって道路から約70mほど下流に吹き飛ばされた車両で行った。同場所には2台の車両が寄り添うようにあり、上流側の車両は北側を前にして裏側を向いて定置しており、下流側のもう一台は南側を前にして斜め裏側をむいて上流側の車両に寄り掛かるように定置している。当時の証言や被災者が残した被災直前の写真や映像から、この2台は報道陣がチャーターしていたタクシー車両と推定されている。今回の発掘で山側の車両からナンバープレートが掘り出され、この車両が「小嵐(こあらし)タクシー」のものであることが分かった。もう一台からは読み取れるナンバープレートは発見されなかったが、他の被災車両から残りを特定した結果、同車両は「丸善タクシー」のものであることが判明した。丸善タクシーの運転者の遺体は定点付近で見つかっており、被災直前に車両外に出ていたと考えられる。一方小嵐タクシーの運転手は定点と発掘車両の中間付近(定点より下流約30m)で見つかっており、直前まで別の場所にいる同僚の車両と無線でやりとりしていることから、車内にいて被災。火砕サージで車体が移動される過程で車外に放り出されたものと推察される。被災直前に定点周辺を通った同僚の証言によると、定点には4台の車両が停車しており、この運転手が使用していた車両は、定点のT字路脇にあったとのこと。同噴火で死亡した日本経済新聞黒田記者の遺品のカメラに残されていたフィルム写真には、この4台の車両が写されており、小嵐タクシーの南側数m近くに吹き飛ばされた丸善タクシーの車両が停車していたことが分かる。6月5日の上空写真には、この両車両があったであろう位置から南東側の側溝の壁面に何かがあたったような破損があり、そのさらに下流に幅約3m程度、長さ約10mで地面をひきずったような削痕が認められる。この削痕の延長上に被災車両があることから、この削痕は車両が火砕サージの衝撃で運搬される過程でできたものと考えられる。車両の産状は、全面のエンジン部と車体本体が折れるように破損しており、バンパーやボンネット、ルーフ、車体の底面、全体に衝撃を受けた大きな凹みが見られる。もし車体が宙に浮いた状態で飛ばされ、弾道を描くように落下した場合であれば、定置した側に大きな凹みができ、地面自体に落下痕などが見られると考えられるが、車体全般に比較的均一な凹みがあることや地面に落下痕などが見られないことから、車体が転がりながら運ばれたことが推測される。車体が掘り出される際、車体にまきこむように挟まっている電線が見られた。周辺には電柱があったことが分かっており、車両が移動する過程で電線にからまり、車体に巻き付いたことが分かる。車両周辺にある1991年6月3日火砕サージ堆積物も確認できた。同堆積物は約3㎝の層厚で、淘汰がよく、砂サイズが主体の堆積物で、炭化木を含む。また車両直下にも確認され、車両の周りと直下では層厚も若干の変化のみで堆積している。周辺の観察地点を含めた同火砕サージ堆積物の等層厚線図によるとこの地域が分布流域の中で主軸に近い位置にあったことが示唆される。今回掘り出された車両は現地に展示され、地元自治会が中心になり災害学習ができる拠点として整備される。遺構を通じて防災意識の高揚の場となればと願う。
調査は島原市北上木場町の当時「定点」と呼ばれた報道陣が多くいた場所で、1991年6月3日の火砕流発生に伴い、火砕サージによって道路から約70mほど下流に吹き飛ばされた車両で行った。同場所には2台の車両が寄り添うようにあり、上流側の車両は北側を前にして裏側を向いて定置しており、下流側のもう一台は南側を前にして斜め裏側をむいて上流側の車両に寄り掛かるように定置している。当時の証言や被災者が残した被災直前の写真や映像から、この2台は報道陣がチャーターしていたタクシー車両と推定されている。今回の発掘で山側の車両からナンバープレートが掘り出され、この車両が「小嵐(こあらし)タクシー」のものであることが分かった。もう一台からは読み取れるナンバープレートは発見されなかったが、他の被災車両から残りを特定した結果、同車両は「丸善タクシー」のものであることが判明した。丸善タクシーの運転者の遺体は定点付近で見つかっており、被災直前に車両外に出ていたと考えられる。一方小嵐タクシーの運転手は定点と発掘車両の中間付近(定点より下流約30m)で見つかっており、直前まで別の場所にいる同僚の車両と無線でやりとりしていることから、車内にいて被災。火砕サージで車体が移動される過程で車外に放り出されたものと推察される。被災直前に定点周辺を通った同僚の証言によると、定点には4台の車両が停車しており、この運転手が使用していた車両は、定点のT字路脇にあったとのこと。同噴火で死亡した日本経済新聞黒田記者の遺品のカメラに残されていたフィルム写真には、この4台の車両が写されており、小嵐タクシーの南側数m近くに吹き飛ばされた丸善タクシーの車両が停車していたことが分かる。6月5日の上空写真には、この両車両があったであろう位置から南東側の側溝の壁面に何かがあたったような破損があり、そのさらに下流に幅約3m程度、長さ約10mで地面をひきずったような削痕が認められる。この削痕の延長上に被災車両があることから、この削痕は車両が火砕サージの衝撃で運搬される過程でできたものと考えられる。車両の産状は、全面のエンジン部と車体本体が折れるように破損しており、バンパーやボンネット、ルーフ、車体の底面、全体に衝撃を受けた大きな凹みが見られる。もし車体が宙に浮いた状態で飛ばされ、弾道を描くように落下した場合であれば、定置した側に大きな凹みができ、地面自体に落下痕などが見られると考えられるが、車体全般に比較的均一な凹みがあることや地面に落下痕などが見られないことから、車体が転がりながら運ばれたことが推測される。車体が掘り出される際、車体にまきこむように挟まっている電線が見られた。周辺には電柱があったことが分かっており、車両が移動する過程で電線にからまり、車体に巻き付いたことが分かる。車両周辺にある1991年6月3日火砕サージ堆積物も確認できた。同堆積物は約3㎝の層厚で、淘汰がよく、砂サイズが主体の堆積物で、炭化木を含む。また車両直下にも確認され、車両の周りと直下では層厚も若干の変化のみで堆積している。周辺の観察地点を含めた同火砕サージ堆積物の等層厚線図によるとこの地域が分布流域の中で主軸に近い位置にあったことが示唆される。今回掘り出された車両は現地に展示され、地元自治会が中心になり災害学習ができる拠点として整備される。遺構を通じて防災意識の高揚の場となればと願う。