日本地球惑星科学連合2024年大会

講演情報

[J] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-IS ジョイント

[M-IS17] 歴史学×地球惑星科学

2024年5月30日(木) 13:45 〜 15:00 201B (幕張メッセ国際会議場)

コンビーナ:加納 靖之(東京大学地震研究所)、芳村 圭(東京大学生産技術研究所)、岩橋 清美(國學院大學)、玉澤 春史(東京大学生産技術研究所)、座長:加納 靖之(東京大学地震研究所)、玉澤 春史(東京大学生産技術研究所)

14:30 〜 14:45

[MIS17-03] 小笠原諸島父島における「1826年の津波」の再検討

*杉森 玲子1,2 (1.東京大学史料編纂所、2.東京大学地震火山史料連携研究機構)

キーワード:小笠原諸島、父島、歴史地震、津波、火山、歴史資料

1.はじめに
小笠原諸島は東京から南に約1,000㎞の太平洋上にあり、一時的な滞在を除けば、1830年より前に定住者はいなかった。小笠原諸島の津波記録を集めた都司(2006)は、18世紀以前の地震や津波については全く史料が残っていないと指摘し、史料から判明した小笠原諸島最古の津波は1826年のものとした。本報告では、その根拠となった史料を精査し、当時の事象について再検討する。
2.Soloviev and Go(1974)の典拠
都司(2006)は、1826年1月に小笠原諸島近海で発生した地震による津波が父島に来襲し、海水が満潮水位の6メートル上まで上昇した、と判断した。これは、太平洋の津波カタログであるSoloviev and Go(1974、ロシア語)の記事に史料の原文が引用されたと理解し、その英訳から導いたものである。記事の末尾には(Beechy, 1831;Perrey, 1862c)と注記がある。
Beechey(1831)は、英国軍艦ブロッサム号の船長が著した、1825~1828年の太平洋とベーリング海峡への航海記で、1827年に小笠原諸島を訪れた際の記述を含んでいる。また、Perrey(1862、フランス語)は、フランスの地震学者が日本の地震と火山現象についてまとめたもので、1826年の小笠原諸島の記事の末尾に(Nouv. Ann. Des Voy. 2e liv., t. 20, p.81, avril 1831)と注記し、Beechey(1831)の内容が反映されている。
3.Beechey(1831)の記述
Beechey(1831)には、1827年6月に父島に寄港した際のことについて、次のような記述がある(和訳。原文は英文予稿参照)。
私達は、この島に8ヶ月間滞在したWittreinから、以下の話を聞いた。この島は1826年1月、ものすごい嵐に見舞われていたが、地震が発生して島は激しく揺さぶられ、同時に海水が上昇した。Wittreinとその仲間は、島が海に飲み込まれると思い、安全のため丘に逃げた。この暴風は中国海上の台風に似ていて、北から西へと向きを変え、ずっと激しく吹き続け、木々を根こそぎ引きはがした。それはウィリアム号の乗組員が建造を始めていた船を破壊し、難破して以来湾内を漂っていたウィリアム号の積荷を陸に打ち上げた。いくつかの樽の様子から、海水は通常の水位より12フィート上昇したに違いない[Wittreinらは、20フィート上昇したと断言した]。(中略)冬の間は地震の揺れが頻繁に感じられ、Wittreinとその仲間は北方にある島の丘の頂から煙が出ているのを何度も目撃した。
4.記述の比較
Soloviev and Go(1974)は、Beechey(1831)に記されていた暴風には言及せず、津波を伴う大変強い地震があった、と記すのみである。海水の上昇については、Beechey(1831)には記されていない満潮水位を基準に記述している。Perrey(1862)にもSoloviev and Go(1974)と同様の記述がある。後年のこの2つの著作は地震や津波のカタログで、小笠原諸島の記事はBeechey(1831)の記述を省略、改変している。
Beechey(1831)の原文に従えば、嵐の中で地震が起きた、と理解するのが自然である。少なくとも、倒木や破船、積荷の打上げについては、暴風を主語として記述されており、それに伴う気象災害と解釈される。暴風に伴い高潮が発生していた可能性が高く、地震と同時に発生したという海水の上昇を、ひとえに津波によるものとみるのは難しい。その点を考慮すれば、「地震に伴う津波による正味の海面上昇量は6~7メートル」という都司(2006)の評価は過大であった可能性がある。ただし、火山活動を示唆する記述の真偽や、それに該当する可能性がある島、地震との関係の有無については判然としない。
なお、Wittreinらが父島に8ヶ月滞在していたとするBeecheyの記述が正しければ、2人は1826年1月にはそこにいなかった計算になる。一方、Beecheyに同行していたPeardは、航海中に記録していた日誌に、ウィリアム号は昨(1826年)9月14日に座礁した、と記している(Gough, 1973)。この日付を起点とすれば、Beecheyの記述通り、2人はちょうど8ヶ月あまり滞在していたことになり、「1826年1月」は「1827年1月」の誤記であった可能性が高い。
5.結論
父島で1826年1月に生じたという事象は、1827年1月のものであった可能性がある。嵐の中で地震が起き、同時に発生したという海水の上昇は、暴風に伴う高潮に起因する部分があった可能性が高い。海面上昇量の見積りでは、それを考慮に入れる必要がある。