[MZZ42-P05] 石見銀山に遺された江戸時代の鉱石および鉱物標本の研究
キーワード:石見銀山、鉱石標本、鉱物、銀、江戸時代、島根
石見銀山で江戸時代に採掘された鉱石の標本資料が,島根県大田市大森で発見された.現在,石見銀山資料館に収蔵されているこの鉱石標本は,全部で58点あり,そのうち24点は和紙で包まれ,包装紙には墨で当時の鉱石または鉱物の名称,採取場所,採取者,採取年月日,品位などの情報が記されている.石見銀山産に限らず,江戸時代に採掘された鉱石標本は殆ど現存しておらず,標本そのものが貴重であるといえるが,本研究のものは各種の鉱石標本に古文書情報が付帯する,他に例を見ないような極めて稀なケースであり,史料としての学術的価値,文化財的価値も高いと判断される.本研究では,鉱石標本をX線粉末回折計(XRD)やエネルギー分散型X線分析装置(EDS),電子顕微鏡(SEM)を用いて分析し,各鉱石標本に含まれる鉱物種の同定を行なうとともに,古文書を読解して考証を試みた.調査の結果,自然銀,輝銀鉱,安四面銅鉱などの銀の鉱石鉱物が見出された.
石見銀山はかつて世界史に影響を与えた鉱山であり,その遺跡はUNESCOの世界遺産に登録されていることでも知名度が高い.戦国時代後期から江戸時代にかけて稼行された日本最大の銀山で,江戸時代には幕府直轄の御領(天領)とされて銀の生産が行われた.最盛期は戦国時代後期から江戸時代初期にかけての16世紀後半から17世紀前半である.江戸時代初頭の日本では銀が大量に生産され,貿易によって世界に流通した.この時期の世界の銀の約3分の1は日本産であるとも推定されており,石見銀山産がそのうちのかなりの部分を占めたとされる.鉱床は鮮新世-更新世の大江高火山期噴出岩類や都野津堆積岩類,それを貫くデイサイト中に胚胎し,網状鉱染型の福石鉱床と鉱脈型の永久鉱床がある.最盛期は福石鉱床の地表近くで,“福石”とよばれる自然銀などが含まれる良質な銀鉱石の採掘が行われた.次第に地下深くに採掘が進んだが,17世紀後半には良質な銀鉱石の産出が減り,以降は永久鉱床の開発が行われた.永久鉱床の鉱石は,福石鉱床の“福石”とは異なり黄銅鉱,斑銅鉱,黄鉄鉱,方鉛鉱などが主体である.
本報告の江戸時代の鉱石標本資料は,石見銀山の山師(鉱山経営者)である高橋家に伝えられたものである.高橋家は18世紀後半の天明年間に銀山町に住みつき,町年寄山組組頭にまで務めた家柄である.標本は木製の箱に収められている.箱の寸法は長辺31.2 cm,短辺21.5 cm, 天地4.0 cmで,内部は1辺4.3 cmの枡目(6×4)に区切られており,この箱が3段重ねにされている.標本のサイズは,多くは最長方向の長さが3 cm前後のものであるが,一部には母岩から分離した紐状の自然銀や輝銀鉱の結晶など,複数の5 mm未満の標本をまとめて和紙に包んだものもある.鉱石標本には,“福石”(重晶石結晶上に晶出した紐状自然銀),“黒地銀寄生”(母岩から分離した自然銀と輝銀鉱),“六方”(輝銀鉱結晶),“青気六方,銀寄生”(母岩から分離した輝銀鉱と自然銀),“サイノメ,裕鏈”(方鉛鉱),“鉑”(黄銅鉱が主体),“銅寄(寄は金扁に寄)”(自然銅と赤銅鉱),“吹きあらし鏈,とかけ色鏈”(斑銅鉱と黄銅鉱),“トカケ地”(方鉛鉱,黄銅鉱,閃亜鉛鉱),“鉑ヌメ”(黄鉄鉱)などがある.鉱石の包装紙に記された情報から,永久鉱床と福石鉱床から産したものが概ね同程度の割合であると判断される.また一部の標本の包装紙には天保2年(1831年),同3年,同5年,文久元年(1861年)に採取された記述が認められるために,江戸時代後期の19世紀中頃に収集されたものと推定される.
上記の鉱石名とその説明の記述は,石見銀山に遺された古文書等の文献中にしばしば認められるが,江戸時代の鉱石の実物標本が発見されて検証されることで,石見銀鉱山における銀生産の状況や用法を明らかにする上の大きな手掛かりが得られる可能性がある.今後,多方面の専門家の連携によって詳細な検証が行われることが期待される.
*この研究は,平成28年度-30年度科学研究費若手研究(A)『石薬(鉱物化石由来薬)の本草博物学的考察に基づくマテリアルサイエンスの構築』(研究代表者:伊藤 謙,大阪大学)の調査研究成果の一部である.
石見銀山はかつて世界史に影響を与えた鉱山であり,その遺跡はUNESCOの世界遺産に登録されていることでも知名度が高い.戦国時代後期から江戸時代にかけて稼行された日本最大の銀山で,江戸時代には幕府直轄の御領(天領)とされて銀の生産が行われた.最盛期は戦国時代後期から江戸時代初期にかけての16世紀後半から17世紀前半である.江戸時代初頭の日本では銀が大量に生産され,貿易によって世界に流通した.この時期の世界の銀の約3分の1は日本産であるとも推定されており,石見銀山産がそのうちのかなりの部分を占めたとされる.鉱床は鮮新世-更新世の大江高火山期噴出岩類や都野津堆積岩類,それを貫くデイサイト中に胚胎し,網状鉱染型の福石鉱床と鉱脈型の永久鉱床がある.最盛期は福石鉱床の地表近くで,“福石”とよばれる自然銀などが含まれる良質な銀鉱石の採掘が行われた.次第に地下深くに採掘が進んだが,17世紀後半には良質な銀鉱石の産出が減り,以降は永久鉱床の開発が行われた.永久鉱床の鉱石は,福石鉱床の“福石”とは異なり黄銅鉱,斑銅鉱,黄鉄鉱,方鉛鉱などが主体である.
本報告の江戸時代の鉱石標本資料は,石見銀山の山師(鉱山経営者)である高橋家に伝えられたものである.高橋家は18世紀後半の天明年間に銀山町に住みつき,町年寄山組組頭にまで務めた家柄である.標本は木製の箱に収められている.箱の寸法は長辺31.2 cm,短辺21.5 cm, 天地4.0 cmで,内部は1辺4.3 cmの枡目(6×4)に区切られており,この箱が3段重ねにされている.標本のサイズは,多くは最長方向の長さが3 cm前後のものであるが,一部には母岩から分離した紐状の自然銀や輝銀鉱の結晶など,複数の5 mm未満の標本をまとめて和紙に包んだものもある.鉱石標本には,“福石”(重晶石結晶上に晶出した紐状自然銀),“黒地銀寄生”(母岩から分離した自然銀と輝銀鉱),“六方”(輝銀鉱結晶),“青気六方,銀寄生”(母岩から分離した輝銀鉱と自然銀),“サイノメ,裕鏈”(方鉛鉱),“鉑”(黄銅鉱が主体),“銅寄(寄は金扁に寄)”(自然銅と赤銅鉱),“吹きあらし鏈,とかけ色鏈”(斑銅鉱と黄銅鉱),“トカケ地”(方鉛鉱,黄銅鉱,閃亜鉛鉱),“鉑ヌメ”(黄鉄鉱)などがある.鉱石の包装紙に記された情報から,永久鉱床と福石鉱床から産したものが概ね同程度の割合であると判断される.また一部の標本の包装紙には天保2年(1831年),同3年,同5年,文久元年(1861年)に採取された記述が認められるために,江戸時代後期の19世紀中頃に収集されたものと推定される.
上記の鉱石名とその説明の記述は,石見銀山に遺された古文書等の文献中にしばしば認められるが,江戸時代の鉱石の実物標本が発見されて検証されることで,石見銀鉱山における銀生産の状況や用法を明らかにする上の大きな手掛かりが得られる可能性がある.今後,多方面の専門家の連携によって詳細な検証が行われることが期待される.
*この研究は,平成28年度-30年度科学研究費若手研究(A)『石薬(鉱物化石由来薬)の本草博物学的考察に基づくマテリアルサイエンスの構築』(研究代表者:伊藤 謙,大阪大学)の調査研究成果の一部である.