15:30 〜 15:45
[SSS07-12] 地震断層近傍での高密度死者分布
キーワード:2016年熊本地震、1927年北丹後地震、安政伊賀上野地震、死者密度、断層線と死者分布
2016年4月16日に起きた熊本地震の本震(M7.3)は、阿蘇カルデラの西側出口の阿蘇大橋付近から宇土市付近に至る布田川断層の滑りによって生じた地震であった。この本震の2日前の4月14日の夜には前震(M6.3)が起き、最大震度7に達し、死者9人を出した、やはり布田川・日奈久断層の滑りによる地震であった。16日の本震による死者は、41人に達した。このうち、自宅付近で死亡した37人については、地震発生後9日が経過した25日までの「熊本日々新聞」の紙面に、各自宅の住所(丁目まで)が掲載された。筆者は、熊本日々新聞東京支局(丸ビル7階)で地震後3週間までの同紙を購入し、死者の自宅住所の記事を抜き出してその位置を地図上に求めプロットを行った。本震発生は16日の午前1時25分であったので、大部分の死者は自宅で就寝中に発生したものと推定される。プロットの為の北緯東経の町丁目の中心位置を採用した。真の自宅位置と誤差は200m以内と推定される。図1は、このようにして得られた本震による死者37人の発止位置を図1の三角印で示した。大部分の死者は、布田川断層からその北側(上盤側)3kmの幅の帯状の地域の内部に集中して生じていたことが分かる。断層の下盤にあたる断層線の南側にはほとんど死者は生じていない。この地震(前震・本震・余震を含め)による全壊家屋は約8000軒を数えるがその分布は、断層から約20km隔たった町村にまで広域に及んでいる。しかし死者の発生分布は、家屋被害分布よりもはるかに分布の集中が著しいのである。監視カメラの映像によると、断層線にごく近い益城町などでは、地震発生後僅か2~3秒以内に木造家屋の全壊は完了しており(熊本日々新報社談)、中に住んでいた人は、揺れを感じた後、ほとんど何もする間もなく落ちてくる天井や壁、家具などの下敷きになったと考えられる。断層線から離れた位置では、家屋は最終的には全壊しても、それに至るまでに数秒から10秒以上の時間が経過して「ゆっくり倒壊」しており、中にいた人は机の下に潜り込む等の緊急措置をおこなう時間的な余裕があったために圧死を免れたものであろうと推定される。
図2は昭和2年(1927)に京都府北部に起きた北丹後地震(M7.3)による起震断層の位置と、当時の町村毎の、各全人口に対する死者の数(%)を丸記号の大きさで表したものである。この地震では郷村断層と、これと共役な関係にある山田断層がすべったが、この2個の断層線にごく接近した位置にある峰山や四辻などで、大きな死者率を示しており、断層線から離れると急速に死者率が下がっているのが読み取れる。家屋倒壊率で同様の図を描くと、倒壊率の高い町村は断層からと遠い位置にも分布していて、断層線が際だつ様な分布は示さない。
歴史事例として、安政元年(1854)六月十五日に発生した伊賀上野地震の集落別死者率を描いてみた。この地震の死者に関しては伊賀上野城下の万福寺の過去帳(「新収日本地震史料 補遺」のp941)が伊賀上野城下の街区ごと、また郷村(郊外地区)の集落ごとの死者数を載せている。このほか、津城下の「嘉平次来状」、伊勢相可の「西村三郎右衛門」などの記録が当時の街道筋の宿場の死者数を載せている。これらに基づいて、伊賀上野とその周辺の集落毎の死者率の分布を図示すると図3が得られる。いっぽう、松田ら(1982)は、安政伊賀上野地震は上野城下の市街地の北側を東西に走る木津川断層の滑りによるものであるとした。図3には、木津川断層(本断層・副断層)の位置も合わせて描いた。やはり、断層にごく接近した集落で、もっとも死者率が大きくなっている様子を読み取ることが出来る。
以上、過去に発生した内陸の断層滑りによる地震3例では、断層線にごく接近した位置で、死者率が大きくなることが示された。その分布の断層付近での集中度は、家屋の被害分布などより鮮明に現れる。ことに断層にかたむきがある場合、上盤側に当たる地域で死者数密度度が大きくなる。この事実は、歴史事例において、どの断層の滑りによる地震であるかが不明の事例について、起震断層がどれであるかを判断するのに役立てることが出来るであろう。
謝辞:この研究は科研費・基盤研究(C)「過去の地震・津波災害における死者発生分布の法則性の解明」(No. 26350479, 代表:都司嘉宣)の研究の一環として行われたものである。
図2は昭和2年(1927)に京都府北部に起きた北丹後地震(M7.3)による起震断層の位置と、当時の町村毎の、各全人口に対する死者の数(%)を丸記号の大きさで表したものである。この地震では郷村断層と、これと共役な関係にある山田断層がすべったが、この2個の断層線にごく接近した位置にある峰山や四辻などで、大きな死者率を示しており、断層線から離れると急速に死者率が下がっているのが読み取れる。家屋倒壊率で同様の図を描くと、倒壊率の高い町村は断層からと遠い位置にも分布していて、断層線が際だつ様な分布は示さない。
歴史事例として、安政元年(1854)六月十五日に発生した伊賀上野地震の集落別死者率を描いてみた。この地震の死者に関しては伊賀上野城下の万福寺の過去帳(「新収日本地震史料 補遺」のp941)が伊賀上野城下の街区ごと、また郷村(郊外地区)の集落ごとの死者数を載せている。このほか、津城下の「嘉平次来状」、伊勢相可の「西村三郎右衛門」などの記録が当時の街道筋の宿場の死者数を載せている。これらに基づいて、伊賀上野とその周辺の集落毎の死者率の分布を図示すると図3が得られる。いっぽう、松田ら(1982)は、安政伊賀上野地震は上野城下の市街地の北側を東西に走る木津川断層の滑りによるものであるとした。図3には、木津川断層(本断層・副断層)の位置も合わせて描いた。やはり、断層にごく接近した集落で、もっとも死者率が大きくなっている様子を読み取ることが出来る。
以上、過去に発生した内陸の断層滑りによる地震3例では、断層線にごく接近した位置で、死者率が大きくなることが示された。その分布の断層付近での集中度は、家屋の被害分布などより鮮明に現れる。ことに断層にかたむきがある場合、上盤側に当たる地域で死者数密度度が大きくなる。この事実は、歴史事例において、どの断層の滑りによる地震であるかが不明の事例について、起震断層がどれであるかを判断するのに役立てることが出来るであろう。
謝辞:この研究は科研費・基盤研究(C)「過去の地震・津波災害における死者発生分布の法則性の解明」(No. 26350479, 代表:都司嘉宣)の研究の一環として行われたものである。