The 56th meeting of the Japanese association of educational psychology

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感情的実践

溢れ出す感情と教育はどのように向き合うべきか

Fri. Nov 7, 2014 10:00 AM - 12:00 PM 301国際会議室 (3階)

[JA01] 感情的実践

溢れ出す感情と教育はどのように向き合うべきか

上淵寿1, 利根川明子2, 松尾剛3, 角藤翔太郎4, 無藤隆5, 遠藤利彦6 (1.東京学芸大学, 2.東京大学大学院・日本学術振興会, 3.福岡教育大学, 4.鹿沼市教育委員会, 5.白梅学園大学, 6.東京大学)

Keywords:感情, 教育実践, 社会的相互作用

教育がコミュニケーションである以上,そこに感情が生じ,感情のやりとりがあるのは,まったく当たり前のことである。しかし,教育心理学においてこのようなことが認識されるようになったのは。一部の例外を除いてごく最近であり,広く了解されているとは到底思われない。
たとえば,つい最近では,2014年になって,Pekrun and Linnenbrink-Gariciaにより,”International Handbook of Emotions in Education”が公刊された。しかし,その内容の大半は,感情の動機づけ機能や,感情をどう取り扱うかに終始し,社会的相互作用における感情の重要な役割が十分に評価されているとは言いがたい。そのため,教育において溢れる感情やそのやりとりをどのように理解し,それを考慮しつつどのように教育を進めていけばよいのかについて,議論していく必要がまだまだある。本シンポジウムでは,このような教育における感情の意味や,実践において感情とどう向き合っていくのかについて,検討したい。

授業における教師の感情
松尾剛(福岡教育大学)
授業における教師の役割として,教室における対話のファシリテーターの側面がある。事前の授業計画に従って効率的に授業を進めていくというだけでなく,多様な子どもの発言を引き出し,その発言に応じて柔軟に授業計画を絶えず調整しながら,学級全体と個人の学びを同時に成立させていくような関わり方である。そのように子どもたちと関わろうとする中で,教師は多様な感情を経験するものと考えられる(e.g., Frenzel, 2014)。
本発表では,小学校の教員や教育実習生を対象とした調査結果を報告し,以下のような点について話題提供を行いたいと考えている。第一に,授業における教師の感情の生起プロセスと,その感情が教師の行動に対して与える影響である。授業中の様々な状況を,どのように評価,解釈し,どのような感情が生じるのか,また,その感情は教師の行動や判断にどのような影響を与えるのか,といった点について授業の文脈に即しながら整理したい。
第二に,感情に注目して授業を語る,振り返るということが,教師の職能開発にいかに資するか,という点である。不安や焦りなどの感情は,注意の焦点を狭め,大局的な視点から物事を判断することを妨げとなりうる(e.g., Fredrickson, 2001)。授業の文脈においては,子どもの発言を多様な角度から理解することを困難にしたり,特定の発言にこだわりすぎて授業全体の目的を見失ったりすることにつながる可能性が考えられる。一方,そのような感情は,現在の関わりを修正する必要性を教師に伝えるフィードバック情報と見なすこともできる。状況の変化に対して即興的に応じる力の一要素として,自身の感情が含む豊かな情報を適切に活用する能力を教師に育むことは重要であろう。
第三に,授業において教師の感情を研究するための方法である。授業後に教師にインタビューを行うという方法がしばしば用いられる。しかし,多くの教師にとって,授業中の感情を言語化することは容易なことではないだろう。そこで,より正確で豊かな情報を教師から引き出すために,授業中の心拍数の変化といった生理的指標の導入を試みている。そのことで,分析対象となる授業の過程で,特に注目すべき場面にうまく当たりをつけながら教師の語りを引き出すことができるのではないかと考えている。また,教師の発言内容に依存しないために,沈黙の際に生じている経験の質などに踏み込んだ分析の可能性なども想定できる。このように,多様な指標を組み合わせていくことの必要性と可能性についても提案したいと考えている。

教室の「感情的文化」とその構成員としての教師・児童
利根川明子(東京大学大学院・日本学術振興会)
従来の教授学習研究の中心的な関心事は,その認知的側面にあり,教室での学習についても,認知的プロセスが重視される傾向にあった(Meyer & Turner, 2007)。それゆえ,教育の実践家や理論家による感情の役割と重要性に関する指摘(e.g., Goldstein, 1999)がある一方で,実証研究の蓄積は未だ発展の途上にあると言える。教室の中での学習や相互作用は,常に,学習者である児童や教授者である教師の感情が伴いながら展開し,そこには,学級毎・授業毎に異なる「感情的トーン(emotional tone: Zembylas, 2004)」が存在する。
教室内の感情的トーンや,授業中の相互作用の感情的側面については,教室の「感情的文化(emotional culture)」の構成という視点から検討されてきた(e.g., Zembylas, 2004)。感情を介した相互作用の質や,その総体としての教室の感情的文化がいかなるものであるか,ということは,学級の児童の目標構造(Turner, Midgley, Meyer, Gheen, Anderman, Kang, & Patrick, 2002)や,教室談話の質(Zembylas, 2004)等に影響を及ぼしうるという実証的証左が得られてきている。
しかし,これまでの研究は,感情的文化の構成に関して,特定の教師や特定の教室を対象に,授業中の相互作用のミクロな分析を深める一方で,感情的文化の学級間差や,その構成員である教師と児童の個人差については論じられてこなかった。教室内の相互作用は,教師が中心的な役割を果たしながら展開(Graff, 2007)しつつも,それは常に,学級に集う児童の特性に応じたものであるはずである。加えて,児童側も単に受け身な存在ではなく,彼ら自身もまた,感情的文化の構成員である(e.g., Harden, 2012)。つまり,教師と児童,双方の個人差を加味しつつ,それを素地として構成される学級毎の感情的文化の差異を想定する必要がある。その上で,異なる特徴をもつ学級の下での感情が果たす役割について,検討していく必要があるだろう。
本発表では,教室の感情的文化を構成する教師と児童,双方の個人差・学級間差に着目した調査結果を報告し,異なる特徴をもつ学級における,感情の役割について考察したい。なお,ここでは特に感情の経験と表出の個人差・学級間差を取り上げる。教室実践は,感情的な経験に根付いたもの(Hargreaves, 1998)であり,教室で経験される感情は,学級毎,個人毎,時間毎に刻々と変化していると考えられる。一方で,経験された感情は,「楽しそう」「苛立っている」「不安げ」といった形で表出され,共有されることで初めて,学級全体の相互作用の感情的トーンに濃淡をもたらすものとなると言える。教室で経験される感情の質や表出の程度は,まさにその度合いや方向性こそが,その学級の感情的文化の表れと捉えることができると同時に,学級内で経時的に構成されてきた感情的文化からの影響を受けうるものでもあると考えられる。
教室の感情的文化はいかにして構成されうるのか,また,個々の児童や教師にとって,あるいは学級全体の相互作用において,教室での感情的文化の構成がどのような意味を持ちうるのか。学級単位での感情的文化の差異を想定した上で,その構成と帰結について検討したいと考えている。

教室での「不安」としての「自己」防衛戦略と「感情の共同体」
上淵寿(東京学芸大学)・角藤翔太郎(鹿沼市教育委員会)
まず,学習者にとって授業や教室はある意味で「サバイバル」の状況や場所でもある。「あてられたらどうしよう」,「うまく答えられるだろうか」,「できなくてバカにされたら恥ずかしい」等々,学習者にとって授業という場や状況での心配はつきものである。こうした授業をうまく嫌な思いをせずに,なんとか「やり過ごす」ことが,いかに授業を受ける者にとって重要なのかは,想像に難くない(Schutz & Pekrun, 2007)。
たとえば,高校で外国語の授業を受ける生徒を考えてみよう。こうした生徒たちには,しばしば英語で話すことへの「不安」と思われる行動が見受けられる(Zeidner & Matthews, 2005)。英語で答えさせようとすると露骨に拒否したり,他の生徒が答えるようにはやし立てたりすると,怒ったりする。また,生徒同士が英語で会話するように働きかけても,はぐらかそうとすることもある。このような行動は,外国語を話すことに対する評価不安と,一般には解釈することができるだろう。そして,上記のような行動は,この不安を少しでもぬぐい去るための,いわば自尊心防衛行動,防衛戦略として捉えることができるだろう(Carver & Scheier, 2014)。
だが,ここではそれとは異なる視点もある。すなわち,多様な戦略と一見認識される行動があるからこそ,そこに「不安」という概念を私たちは形成したり,見出したりするのかもしれない。最初から不安があるわけではない。多様な自己防衛的戦略とみられるものは,他者との安定的な距離や関係の維持を崩すような状況になった時の戸惑いや,それに対する抵抗と捉えることもできる。そのような戦略行動が多数重なる時,私たちや生徒自身はそれを「外国語不安」として認識するのではないだろうか。そして,その感情の中核にこの生徒の守るべき「自己」や「自尊感情」を構築するのではないだろうか(Harre & Van Langenhove, 1999)。
一方,感情は個人の問題として片付けられないことも多い。先の生徒の振る舞いも,いわば教室の雰囲気やムードの中で否応なく促された行動である。このように,授業では当事者間に多様な社会的相互作用がみられる(Hagenauer & Hascher, 2010)。これらを通じて形成される教室の雰囲気や構造は,いわば共同体としての教室を固めていくのに大きな影響をもつと考えられる。このようにして成立する学級の共同体は「感情の共同体」(community of emotions)と呼べるだろう。この「感情の共同体」を構築していくことが,教師にとって重要な営為となるのではないか。本報告では,以上のような論点について考察する。