[PC056] 古典授業における対話型両義的発話の機能
授業文脈をずらす効果に注目して
Keywords:両義的発話, 教室談話, 国語科(古典)
問題と目的
教師と子ども(生徒)は授業で、課題解決の文脈に即しているフォーマルな発話と、認知表出という点では不完全さを残していたり、個人的経験に基づいていたりするインフォーマルな発言と、両方の要素を持つ両義的発話を生成しながら、授業コミュニケーションを行っている(藤江,2000)。
両義的発話は、教師が子どもの自発的な両義的発話に対応することで課題解決の促進や授業進行の円滑化をすることや(藤江,2000)、子どもの自発的な両義的発話を教師がマネジメントすることで、教室内コミュニケーションに貢献する(藤江,2011)ことが分かっている。
しかし、藤江(2000; 2011)は、いずれも小学校社会科の授業を扱っており、教師の語りも現代社会における人間やその営みについてのものである。子どもの学習経験はもとより生活経験とも関連づけがしづらい科目の場合については検討されていない。そこで、本研究では、そのような科目のひとつと考えられる古典の授業における両義的発話の機能について検討した。
方 法
対象:東京都内にある公立の中高一貫校の3年生3クラスの「古典」授業(小倉百人一首)12回分。調査: 授業の参与観察とA教諭(教諭歴22年)へのインタビュー。分析:授業の映像記録とインタビューの質的分析。
結果と考察
12回の参与観察において、生徒による自発的な両義的発話は一切見られず、両義的発話はすべてA教諭から行われていた。
そのA教諭の両義的発話を、生徒の発話に応答したもの(対話型両義的発話、Table1参照)と、教師の独り言の形で発せられたもの(独話型両義的発話)の2カテゴリで検討した結果、対話型両義的発話は全ての授業で平均3回、合計41回発生し、独話型両義的発話は4回発生していた。
A教諭の対話型両義的発話は、子どもの両義的発話に応答するのではなく、すべて生徒の「読み間違い」に応答する形で発生していた。その例をTable1に示す。
この事例では、生徒の「この先生(せんせい)生きながら・・・」という言い間違えに対し、A教諭は「間違っている」と否定するのではなく、「オレ絶好調じゃねーかよ」と生徒の言い間違いに応答するように発話していた。この発話は、和歌の訳の答えに対する反応としてはフォーマルともとれるが、生徒の言い間違いのおかしみに反応することでインフォーマルともとれ、両義的である。このように、生徒の発言のおかしみを足がかりに両義的発話を行って、フォーマルな授業文脈をずらしたコミュニケーションを行うことで、古典授業へと参加しやすい雰囲気を創っていた。
A教諭は、この発話の意図について、「古典自体になじみがない生徒が多いので、初学段階では古典の授業そのものになじませることを目的としているため」と話していた。
これは、生徒の言い間違いに自ら両義的発話で応答することで、学習経験はもとより生活経験とも関連づけがしづらい生徒の気持ちに寄りそいつつ、「間違っても問題ないよ」というシグナルを送りながら授業を進める授業デザインをマネジメントしていることを表していると考えられる。
以上のことから、本研究では、教師が自ら対話型両義的発話を行いながら、授業文脈をずらしたり戻したりすることで、子どもの学習経験はもとより生活経験とも関連づけがしづらい科目でも、両義的発話が教室内コミュニケーションのリソースとして機能している可能性が示唆された。
A教諭 はい、じゃ次の人。84。
生徒 ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂しとみし世ぞ今はこひしき、藤原清輔朝臣。この先生(せんせい)生きながら・・・【言い間違い】
A教諭 この先生、生きながらえればってなんだよ、オレ絶好調じゃねーかよ。
【教師の対話型両義的発話→ 生徒の間違いのおかしみに応答して授業文脈を少しだけずらす】
生徒 この先(さき)、生きながらえるならば、つらいと感じているこのごろもまた、懐かしく思い出されることだろうか。つらいと思って過ごした昔の日々も、今では恋しく思われることだから。
【課題解決】(中略)
A教諭 はい、じゃ次の人。
【フォーマルな授業文脈へ戻す】
教師と子ども(生徒)は授業で、課題解決の文脈に即しているフォーマルな発話と、認知表出という点では不完全さを残していたり、個人的経験に基づいていたりするインフォーマルな発言と、両方の要素を持つ両義的発話を生成しながら、授業コミュニケーションを行っている(藤江,2000)。
両義的発話は、教師が子どもの自発的な両義的発話に対応することで課題解決の促進や授業進行の円滑化をすることや(藤江,2000)、子どもの自発的な両義的発話を教師がマネジメントすることで、教室内コミュニケーションに貢献する(藤江,2011)ことが分かっている。
しかし、藤江(2000; 2011)は、いずれも小学校社会科の授業を扱っており、教師の語りも現代社会における人間やその営みについてのものである。子どもの学習経験はもとより生活経験とも関連づけがしづらい科目の場合については検討されていない。そこで、本研究では、そのような科目のひとつと考えられる古典の授業における両義的発話の機能について検討した。
方 法
対象:東京都内にある公立の中高一貫校の3年生3クラスの「古典」授業(小倉百人一首)12回分。調査: 授業の参与観察とA教諭(教諭歴22年)へのインタビュー。分析:授業の映像記録とインタビューの質的分析。
結果と考察
12回の参与観察において、生徒による自発的な両義的発話は一切見られず、両義的発話はすべてA教諭から行われていた。
そのA教諭の両義的発話を、生徒の発話に応答したもの(対話型両義的発話、Table1参照)と、教師の独り言の形で発せられたもの(独話型両義的発話)の2カテゴリで検討した結果、対話型両義的発話は全ての授業で平均3回、合計41回発生し、独話型両義的発話は4回発生していた。
A教諭の対話型両義的発話は、子どもの両義的発話に応答するのではなく、すべて生徒の「読み間違い」に応答する形で発生していた。その例をTable1に示す。
この事例では、生徒の「この先生(せんせい)生きながら・・・」という言い間違えに対し、A教諭は「間違っている」と否定するのではなく、「オレ絶好調じゃねーかよ」と生徒の言い間違いに応答するように発話していた。この発話は、和歌の訳の答えに対する反応としてはフォーマルともとれるが、生徒の言い間違いのおかしみに反応することでインフォーマルともとれ、両義的である。このように、生徒の発言のおかしみを足がかりに両義的発話を行って、フォーマルな授業文脈をずらしたコミュニケーションを行うことで、古典授業へと参加しやすい雰囲気を創っていた。
A教諭は、この発話の意図について、「古典自体になじみがない生徒が多いので、初学段階では古典の授業そのものになじませることを目的としているため」と話していた。
これは、生徒の言い間違いに自ら両義的発話で応答することで、学習経験はもとより生活経験とも関連づけがしづらい生徒の気持ちに寄りそいつつ、「間違っても問題ないよ」というシグナルを送りながら授業を進める授業デザインをマネジメントしていることを表していると考えられる。
以上のことから、本研究では、教師が自ら対話型両義的発話を行いながら、授業文脈をずらしたり戻したりすることで、子どもの学習経験はもとより生活経験とも関連づけがしづらい科目でも、両義的発話が教室内コミュニケーションのリソースとして機能している可能性が示唆された。
A教諭 はい、じゃ次の人。84。
生徒 ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂しとみし世ぞ今はこひしき、藤原清輔朝臣。この先生(せんせい)生きながら・・・【言い間違い】
A教諭 この先生、生きながらえればってなんだよ、オレ絶好調じゃねーかよ。
【教師の対話型両義的発話→ 生徒の間違いのおかしみに応答して授業文脈を少しだけずらす】
生徒 この先(さき)、生きながらえるならば、つらいと感じているこのごろもまた、懐かしく思い出されることだろうか。つらいと思って過ごした昔の日々も、今では恋しく思われることだから。
【課題解決】(中略)
A教諭 はい、じゃ次の人。
【フォーマルな授業文脈へ戻す】