1:00 PM - 3:00 PM
[JB03] 沖縄の「子育て・教育への共同的営み」を形作る歴史・文化・人々
「子育て・教育の共同的営み」としてのアロマザリングとPTA
Keywords:沖縄, アロマザリングとPTA, 歴史と文化
企画趣旨
子育てや教育の私事化とともに,子育てや教育への共同的営みのあり方もまた,最近の話題や課題になりつつある。待機児童の問題,学校の家庭支援という考え方,そして,保護者と教師の共同活動の場であるPTAのあり方など,「子育て・教育への共同参画」は,今日の個人,家族,社会の変動と連動して様々な課題を抱え始めている。
一方,沖縄では子育て・教育における人々の共同的営みが実に豊かな形で存在している。沖縄の離島である多良間島には,アロマザリングと呼ばれる母親以外の少女による子育ての風習がある。また,沖縄県那覇市のある小学校のPTAには,独自の保護者同士の共同の姿が存在する。一方,歴史的には,沖縄は独自の戦後史を抱えてきた。これらの話題提供から,本シンポジウムでは,沖縄の豊かな「子育て・教育への共同参画」のあり方とその背景となる歴史,文化,人々について考察し,更に,沖縄の生活者としての視点と生涯発達心理学的見地からの指定討論を通して議論を深めていく。
戦後沖縄におけるPTA活動の展開 神野潔
沖縄の戦後教育史についてはこれまで多くの研究が蓄積されてきたが,そのなかでPTAについて扱ったものは多くない。しかし,PTAが戦後の教育改革の中で生まれた「子育て・教育の共同的な営み」の場であることを鑑みると,複雑な展開を見せてきた沖縄の戦後教育史の流れのなかにPTAを位置付けてみることは,大きな意味を持つものであると考えられる。そこで,本報告では,沖縄でPTAがどのように成立・展開し,どのような役割を果たしてきたか,史料を多く用いて,その実態的変遷を整理することにしたい。
戦後の沖縄では,各学校ごとに存在した学校後援会をまとめる組織として,1947年に沖縄教育後援連合会が設立された。その後,1950年頃から各学校でPTA設立の動きが高まり,1953年に沖縄教育後援連合会を改組して,沖縄PTA連合会が作られるに至った。この時期の活動で興味深いものとして,沖縄PTA連合会が「子供博物館」を設置し,その運営(児童・生徒の作品展示や映画・紙芝居の上映など)を行っていたことが挙げられる。各単位PTAの活動は,学校施設の整備(校舎建設・校地整理への協力,校具・教具の充実など)が中心で,このような「学校後援」的活動は,本土のPTAにも同様に見られたものであった。ただし,沖縄の場合は「琉球政府の力だけでは本土の教育水準に達するのは何時の日かかわからない」(沖縄教職員会編『1961年教育白書 沖縄教育の実態—本土に程遠い教育水準』)という状況であったから,教育環境を整えるために,PTAがカヤ葺の臨時校舎を建てるなど,「学校後援」としてのPTA活動が特に重視された。
1960年代後半からは,(本土と同様に)本来のPTAの在り方が議論されるようになり,児童福祉・成人教育への意識が高まっていった。生徒・児童の不良化対策もPTAの重要な仕事であったが,沖縄ではアメリカ軍演習場での「弾拾い」や,アメリカ人の振る舞いが不良化問題と密接に関わるものと捉えられていた。そして,「本土復帰」後で重要なのは,「日の丸」・「君が代」問題が沖縄のPTA活動と深く関わったことである。この点については,本来教師と親の場であるPTAが具体的にどのような対応をし,教師と親の関係をどのように変化させたのか,確認することにしたい。
那覇市のA小学校単位PTAに見られる人々の組織・役割・人間関係の作り方 竹尾和子
「PTA研究」プロジェクトの初のフィールドワークとしての沖縄県那覇市単位PTAの事例を元に,沖縄県の人々の心理や対人関係の作り方について考察する。昨今PTA問題として「強制的な役員の割り当てがしばしば話題に上っている。その中で,「役員決め」の常とう手段として用いられるのが「じゃんけん」や「くじ引き」である。しかし,那覇市A小学校単位PTAでは,「じゃんけん」や「くじ引き」は一切行われない。更に,PTA役員の方々へのインタビューでは,これらの方法に対して,「そんな風に決められたら,ものすごくストレスになると思います」「きついですよね」「軋轢を生むだけだと思う」といった否定的感情や態度が語られていた。代わってA小学校単位PTAの役員決めの基本は役員から会員への「依頼」に留まる。役員決めが「依頼」だけで成立する要因の一つに,一人の人(役を引き受けられない人,部長などの重要な役割を任された人)を孤独にさせない,負担を負わせない人間関係があるように思われる。部長,副部長,部員等それぞれに役割はあるものに,実際にそれを誰が遂行するかは,その時々のメンバーの生活状況に応じて流動的に決められていく。役員になりながらも活動をしない人や,「子ども一人につき2年間は上記の役のいずれかを担当する」という内規を守らない人への寛容さも概して高かった。また,一般的にPTAの活動内容は前例によって決定されるのだが,A小学校PTAの場合,その時々の活動はある程度前例を意識ながら運用されるものの,保護者の都合や得意分野により活動が一時的に休止されたり,代わりの活動が自由になされたりすることにも寛容であった。以上のように,役割,ルール,前例への遵守よりも,その時々のメンバーの様々な状況への配慮を優先するA小学校PTAの風土は,PTA内の自由度を保障し,「自由だから楽しい」という語りなど,PTAの満足度も概して高かった。このようなA小学校の特殊性の背景には何があるのだろうか。この問いに対して,PTAの人々は「ゆいまーる(持ちつ持たれつ)」「なんくるないさ(なんとかなるさ)」「ないるうっさ(できるときにできることをできるだけ)」等の言葉をしばしば引用して説明した。これらの言葉に反映される沖縄の人々の価値観,更に,小学校や地域への愛着,人間関係の作り方,PTA役員の男女比がほぼ半々等の諸条件がA小学校の全体像を紡ぎだしている。インタビューでの人々の語りから,その仕組みにできる限り近づき,昨今のPTA問題を解決する糸口を見出してみたい。
離島における地域に開かれた子育て―多良間島のアロマザリングから 根ケ山光一
沖縄県多良間島には,「守姉」と呼ばれる母親以外の少女による子育ての風習がある。それは母親が守子となる子どもから長時間安定的に分離することを可能にする。守姉は守子の家に入り込み,また守子を自宅にも連れてくることで双方向の出入りが成立し,そうすることによって守姉と守子の二者関係にとどまらない両家族の交流が実現する。とくに守姉の母親はダクアンナと呼ばれ,守子にとって守姉と並ぶ特別の人となる。また守姉は,自分の遊び仲間等のネットワークにも守子を導き入れる。守姉には大別して,赤ん坊の母方のいとこと,非血縁の隣人・知人の少女という2種類があるが,前者が近縁者のネットワークを,後者が地縁のネットワークをそれぞれ支え育む土台となる。都会に比べ,少女が乳児をケアすることに対する島民の肯定的なまなざしや,子どものけがへのよりおおらかな対応,保育園降園時のより大きな社会的接触などを,守子の自律性・守姉の養護性に対する親の信頼感が下支えしている。それはさらに,大人と子どもの生活圏の不分離,豊かなアロマザリング(きょうだい・父親など)とも結びついている。その結果として,母親とその子どもが過度に密着せず,ほどよい距離を保つことができることとなる。また守姉にとっても,守子の世話を通じて幼い子どもの扱いを学習する経験となる。そのような守姉の体験が,成人後における自らの子育てにも影響し,おおらかに隔たりを保った育児の世代間伝承をもたらしていると思われる。しかしその根幹をなす守姉の風習が,近年影を潜めつつある。その一つの要因が1972年の沖縄本土復帰であろう。それによって1979年に保育所が設置され,子育ての環境が一変した。また学校の学力向上にむけての努力がうたわれるようになり,守姉適齢期の子どもたちが勉学とサークル活動に集中することとなった。さらに,高校進学にともなう島離れや団地・テレビ等の浸透による生活の都会化などもその動きを加速させたと考えられる。こういった多良間島での養育の公的サービス化と専門職化は,現在の都会でごく一般的に見られる姿である。多良間島の育児の変遷を見ることで,我々の育児を問い直してみることの意義は大きい。
子育てや教育の私事化とともに,子育てや教育への共同的営みのあり方もまた,最近の話題や課題になりつつある。待機児童の問題,学校の家庭支援という考え方,そして,保護者と教師の共同活動の場であるPTAのあり方など,「子育て・教育への共同参画」は,今日の個人,家族,社会の変動と連動して様々な課題を抱え始めている。
一方,沖縄では子育て・教育における人々の共同的営みが実に豊かな形で存在している。沖縄の離島である多良間島には,アロマザリングと呼ばれる母親以外の少女による子育ての風習がある。また,沖縄県那覇市のある小学校のPTAには,独自の保護者同士の共同の姿が存在する。一方,歴史的には,沖縄は独自の戦後史を抱えてきた。これらの話題提供から,本シンポジウムでは,沖縄の豊かな「子育て・教育への共同参画」のあり方とその背景となる歴史,文化,人々について考察し,更に,沖縄の生活者としての視点と生涯発達心理学的見地からの指定討論を通して議論を深めていく。
戦後沖縄におけるPTA活動の展開 神野潔
沖縄の戦後教育史についてはこれまで多くの研究が蓄積されてきたが,そのなかでPTAについて扱ったものは多くない。しかし,PTAが戦後の教育改革の中で生まれた「子育て・教育の共同的な営み」の場であることを鑑みると,複雑な展開を見せてきた沖縄の戦後教育史の流れのなかにPTAを位置付けてみることは,大きな意味を持つものであると考えられる。そこで,本報告では,沖縄でPTAがどのように成立・展開し,どのような役割を果たしてきたか,史料を多く用いて,その実態的変遷を整理することにしたい。
戦後の沖縄では,各学校ごとに存在した学校後援会をまとめる組織として,1947年に沖縄教育後援連合会が設立された。その後,1950年頃から各学校でPTA設立の動きが高まり,1953年に沖縄教育後援連合会を改組して,沖縄PTA連合会が作られるに至った。この時期の活動で興味深いものとして,沖縄PTA連合会が「子供博物館」を設置し,その運営(児童・生徒の作品展示や映画・紙芝居の上映など)を行っていたことが挙げられる。各単位PTAの活動は,学校施設の整備(校舎建設・校地整理への協力,校具・教具の充実など)が中心で,このような「学校後援」的活動は,本土のPTAにも同様に見られたものであった。ただし,沖縄の場合は「琉球政府の力だけでは本土の教育水準に達するのは何時の日かかわからない」(沖縄教職員会編『1961年教育白書 沖縄教育の実態—本土に程遠い教育水準』)という状況であったから,教育環境を整えるために,PTAがカヤ葺の臨時校舎を建てるなど,「学校後援」としてのPTA活動が特に重視された。
1960年代後半からは,(本土と同様に)本来のPTAの在り方が議論されるようになり,児童福祉・成人教育への意識が高まっていった。生徒・児童の不良化対策もPTAの重要な仕事であったが,沖縄ではアメリカ軍演習場での「弾拾い」や,アメリカ人の振る舞いが不良化問題と密接に関わるものと捉えられていた。そして,「本土復帰」後で重要なのは,「日の丸」・「君が代」問題が沖縄のPTA活動と深く関わったことである。この点については,本来教師と親の場であるPTAが具体的にどのような対応をし,教師と親の関係をどのように変化させたのか,確認することにしたい。
那覇市のA小学校単位PTAに見られる人々の組織・役割・人間関係の作り方 竹尾和子
「PTA研究」プロジェクトの初のフィールドワークとしての沖縄県那覇市単位PTAの事例を元に,沖縄県の人々の心理や対人関係の作り方について考察する。昨今PTA問題として「強制的な役員の割り当てがしばしば話題に上っている。その中で,「役員決め」の常とう手段として用いられるのが「じゃんけん」や「くじ引き」である。しかし,那覇市A小学校単位PTAでは,「じゃんけん」や「くじ引き」は一切行われない。更に,PTA役員の方々へのインタビューでは,これらの方法に対して,「そんな風に決められたら,ものすごくストレスになると思います」「きついですよね」「軋轢を生むだけだと思う」といった否定的感情や態度が語られていた。代わってA小学校単位PTAの役員決めの基本は役員から会員への「依頼」に留まる。役員決めが「依頼」だけで成立する要因の一つに,一人の人(役を引き受けられない人,部長などの重要な役割を任された人)を孤独にさせない,負担を負わせない人間関係があるように思われる。部長,副部長,部員等それぞれに役割はあるものに,実際にそれを誰が遂行するかは,その時々のメンバーの生活状況に応じて流動的に決められていく。役員になりながらも活動をしない人や,「子ども一人につき2年間は上記の役のいずれかを担当する」という内規を守らない人への寛容さも概して高かった。また,一般的にPTAの活動内容は前例によって決定されるのだが,A小学校PTAの場合,その時々の活動はある程度前例を意識ながら運用されるものの,保護者の都合や得意分野により活動が一時的に休止されたり,代わりの活動が自由になされたりすることにも寛容であった。以上のように,役割,ルール,前例への遵守よりも,その時々のメンバーの様々な状況への配慮を優先するA小学校PTAの風土は,PTA内の自由度を保障し,「自由だから楽しい」という語りなど,PTAの満足度も概して高かった。このようなA小学校の特殊性の背景には何があるのだろうか。この問いに対して,PTAの人々は「ゆいまーる(持ちつ持たれつ)」「なんくるないさ(なんとかなるさ)」「ないるうっさ(できるときにできることをできるだけ)」等の言葉をしばしば引用して説明した。これらの言葉に反映される沖縄の人々の価値観,更に,小学校や地域への愛着,人間関係の作り方,PTA役員の男女比がほぼ半々等の諸条件がA小学校の全体像を紡ぎだしている。インタビューでの人々の語りから,その仕組みにできる限り近づき,昨今のPTA問題を解決する糸口を見出してみたい。
離島における地域に開かれた子育て―多良間島のアロマザリングから 根ケ山光一
沖縄県多良間島には,「守姉」と呼ばれる母親以外の少女による子育ての風習がある。それは母親が守子となる子どもから長時間安定的に分離することを可能にする。守姉は守子の家に入り込み,また守子を自宅にも連れてくることで双方向の出入りが成立し,そうすることによって守姉と守子の二者関係にとどまらない両家族の交流が実現する。とくに守姉の母親はダクアンナと呼ばれ,守子にとって守姉と並ぶ特別の人となる。また守姉は,自分の遊び仲間等のネットワークにも守子を導き入れる。守姉には大別して,赤ん坊の母方のいとこと,非血縁の隣人・知人の少女という2種類があるが,前者が近縁者のネットワークを,後者が地縁のネットワークをそれぞれ支え育む土台となる。都会に比べ,少女が乳児をケアすることに対する島民の肯定的なまなざしや,子どものけがへのよりおおらかな対応,保育園降園時のより大きな社会的接触などを,守子の自律性・守姉の養護性に対する親の信頼感が下支えしている。それはさらに,大人と子どもの生活圏の不分離,豊かなアロマザリング(きょうだい・父親など)とも結びついている。その結果として,母親とその子どもが過度に密着せず,ほどよい距離を保つことができることとなる。また守姉にとっても,守子の世話を通じて幼い子どもの扱いを学習する経験となる。そのような守姉の体験が,成人後における自らの子育てにも影響し,おおらかに隔たりを保った育児の世代間伝承をもたらしていると思われる。しかしその根幹をなす守姉の風習が,近年影を潜めつつある。その一つの要因が1972年の沖縄本土復帰であろう。それによって1979年に保育所が設置され,子育ての環境が一変した。また学校の学力向上にむけての努力がうたわれるようになり,守姉適齢期の子どもたちが勉学とサークル活動に集中することとなった。さらに,高校進学にともなう島離れや団地・テレビ等の浸透による生活の都会化などもその動きを加速させたと考えられる。こういった多良間島での養育の公的サービス化と専門職化は,現在の都会でごく一般的に見られる姿である。多良間島の育児の変遷を見ることで,我々の育児を問い直してみることの意義は大きい。