[準企シ] 自伝的記憶と成長との関係を考える
生涯教育の様々なステージで
Keywords:自伝的記憶の機能, アイデンティティ, ライフステージ
人間は,青年期を過ぎても発達し,学び,成長し続ける存在である。その生涯を通しての成長にとって重要な役割を果たすものの一つに,自身が経験した出来事の記憶である自伝的記憶があげられる。自伝的記憶には,自己を確立し維持する機能(自己機能),自らの考え方や行動を方向づける機能(方向づけ機能),他者との関係性を確認し維持,強化する機能(社会機能)などがあると考えられている。これらの機能は,人生のさまざまな時期において,個人を成長させ,安定させ,生活の質を高める上で重要な役割を果たしていると考えられる。
本シンポジウムでは,自伝的記憶の機能や自伝的推論などに関する一般的な話題提供に続いて,児童期から老年期に至る各ステージにおいて自伝的記憶がどのような機能を持ち,どのような介入,はたらきかけが自伝的記憶の機能の十分な発揮に繋がるのか,などについて具体的な話題提供をいただく。各話題提供者は,生涯の各ステージにおいて自伝的記憶が果たす役割について,それぞれの考え方に基づき,実践的に研究されてきた研究者である。具体的でかつ示唆に富んだ話題提供がいただけるものと思われる。
これらの話題提供に基づき,自伝的記憶の機能が広い意味での教育の中でどのように捉えられ,生かされるのか,自伝的記憶研究を教育において役立てるためにはどうしたらよいのか,などについて話題提供者,指定討論者,フロアの先生方と共に議論したい。
以下,各話題提供の概要を示す。
自伝的記憶の機能と自伝的推論
佐藤浩一
自伝的記憶の研究テーマは「構造」と「機能」に分けられる。初期には,「いつの出来事が想起されやすいか」「どういう手がかり語が記憶を引き出しやすいか」等,構造に関わる検討が多かった。その後,機能に関する検討が盛んになった。
自己・方向づけ・社会という3つの機能は,特定の理論や研究から引き出されたものではない。自伝的記憶とパーソナリティとの関連,鮮明な記憶の語り,自伝的記憶の再構成,経験からの教訓学習等々,多様な研究の蓄積から次第に定説化したものである。近年は3機能を測定するTALE尺度も開発され,3機能すべてを含む検討が可能になった。
しかし過去経験やその記憶は,最初から,何らかの機能を担っているわけではない。その経験を想起し意味づけることを通して,機能が発揮される。こうした意味づけは自伝的推論と呼ばれ,自伝的記憶だけでなく,心的外傷後成長,高齢者の回想,ライフストーリーなど様々なテーマのもとで検討されてきた。本シンポジウムでの話題提供は,いずれも,生涯の各ステージで,人がどのように自分の記憶を確認し,意味づけるかを検討したものと捉えることができる。「自伝的推論尺度」を用いた筆者の検討では,ネガティブ経験よりポジティブ経験の方が強い自伝的推論を引き出しやすいこと,ポジティブ経験に対する自伝的推論が自尊感情やアイデンティティ確立等と関連することが見出された。
個人の意味づけの内実を捉えるためには,質的なアプローチも求められる。筆者は現在,学部生・院生の教育実践経験の意味づけを,半構造化面接や実習記録の分析を通して探っている。各人に独自の主題が語られた。また「主題」と表現されなくとも,同様のテーマが繰り返し語られることもあった。実践上の成功・失敗は自分を表すものとして意味づけられる(自己機能)とともに,次に生かされ(方向づけ機能),後輩に与えるアドバイスの素材となる(社会機能)ものであった。
児童養護施設におけるライフストーリーワーク
楢原真也
「私のお母さんはどんな人なんだろう…」,「僕はどうせ捨てられた子どもなんでしょ」。児童養護施設で暮らす子どもたちは,自分の意志とは無関係に,住み慣れた地域や慣れ親しんだ友人たちと離れ,生活をしている。そのため,子どもたちの中には,なぜ施設で暮らすのか理解していなかったり,「自分が悪いから施設に来た」と考えている者もいる。入所前の度重なる分離・喪失体験や養育者の交代,慢性的な被虐待体験などによって過去の記憶が想起できなかったり,自己評価や自尊心が大きく低下していることもある。容易に打ち明けられない秘密を抱えてしまうことによって,他者との疎外感や隔絶感が生まれてしまうこともあれば,両親の名前,名前の由来,血液型,出生地,国籍など自分を構成するはずのごく基本的な情報さえ知らず,アイデンティティの曖昧さに苦しんでいることもある。
このような事情から,子どもたちは自分の出自や家族にまつわる事柄に思い悩み,自分なりの答えを求めていることがほとんどである。彼らの自伝的記憶には必然的にネガティブな要素,空白,混乱,ファンタジーなどが含まれることも多い。
ライフストーリーワークは,こうした社会的養護のもとで暮らす子どもたちと,彼らにとっての重要な事実(生い立ち,家族の状況,入所理由など)を支援者との間で分かちあい,肯定的な自己物語を形成するための支援である。
事実をわかちあっていく支援は子どもたちに必要であるが,本人に伝える/本人から語られる内容は,決して肯定的なものばかりではない。子どもたちが厳しい事実に直面せざるをえなくなったとき,それまでに施設の生活を通して得られた良き出会いや楽しい記憶の集積が子どもの背中をそっと後押しするものでありたいと考えている。
青年期の自伝的記憶における自己機能とアイデンティティ
山本晃輔
アイデンティティの確立は,青年期の発達を考える上で極めて重要な課題である。アイデンティティの形成に関わる要因には様々なものが挙げられるが,なかでも自伝的記憶はその中心的な役割を果たしている。自伝的記憶は自己の構成要素であり,その集合体が個人のアイデンティティを形成している。我々は,青年期に入ると「自分は何者であるのか」という問いを自分に課し,その答えを導きだそうとする。このような過程の中で,これまでの生涯を振り返り,自伝的記憶を想起し,過去の自分を再認識する。そして,過去および現在における自分と社会が認めかつ期待している自分とを統合することを通して,アイデンティティを確立させていく。このようなプロセスは自伝的記憶の自己機能の一端である。
本話題提供では,自伝的記憶の自己機能に注目し,アイデンティティの確立と自伝的記憶における双方向の関係性を検討した研究を紹介する。アイデンティティの確立度が自伝的記憶の想起に及ぼす影響を検討した研究では,アイデンティティの達成度を尺度によって高群と低群に分け,群間における自伝的記憶の差異が検討されてきた。筆者の研究では,アイデンティティの確立高群の方が低群よりも意図的および無意図的に想起される自伝的記憶の重要度や情動特性が高いことが示された。また,自伝的記憶の想起がアイデンティティの確立に及ぼす影響を検討した研究では,重要度が低い自伝的記憶の想起前後では,アイデンティティの確立度に変化がみられないが,重要度が高い自伝的記憶では想起前よりも想起後の方がアイデンティティの達成度が高くなった。さらに,アイデンティティと動機づけの関係に注目し,自伝的記憶の想起が動機づけに及ぼす影響に関する研究についても紹介する。これらの研究を生涯発達の視点から議論することを通して,今後の展開について考えたい。
青年期から中年期の人生の語り直しと時間的展望
白井利明
リクールによれば語りとは行為の再現(生き直すこと)であるが(厚東,1991),人生の語り直しは自伝的記憶と大いに関係がある。私の行った20代から40代の時間的展望の縦断研究から考える。
加齢により人生に対する見方が肯定化することは知られている。その理由として,社会情動的選択性理論(カールステンセンら,2008)によれば,残された人生の時間が短くなると,限られた資源を活用するため,情動調整の優先順位が上がるためだと説明される。また,ビリンら(2008)によれば,加齢によりネガティブな記憶よりもポジティブな記憶のほうが再生されやすくなる。自己を自分や他人に語る際にトップダウンの見方をさせ,生成する価値と目標に一致させるようにしむけるからだと説明される。
私は27年間に及ぶ縦断研究で20代と40代に同じ時期への意味づけを繰り返し聞いてきた。その結果,出来事の記憶自体は変化しないが,その意味づけは現在の満足によって左右されていた。たとえば「現在が満足しているから当時のことも満足している」といった逆行の意味づけである。40代で当時の意味づけの記憶を聞くと,記憶の内容は変容していないが,アクセスする出来事が違うことがあった。これらは20代と40代で大きく違うようには思われなかった。むしろ個人差が大きかった。逆行の意味づけを拒否し,常に今を生きようとする語りもあったからである。また,必ずしもポジティブな記憶ばかりではなく,ネガティブな記憶も少なくなかった。そして,ネガティブな記憶との対比で,人生を肯定的に意味づけることが見られた。たとえば,「ネガティブな経験があるからこそ今の自分がいる」といった語り方である。
結局,自伝的記憶は,ネガティブなものであっても過去の「私」を保持し,それと対比することで,未完と未定の人生を他者とともに生きるためのものだと思われる。
エンディングノートにおける中高年の自伝的記憶の機能
下島裕美
自分に「もしも」のことがあったときのために,家族や周囲の人に伝えておきたいことを記しておくノートをエンディングノートという。下島 (2015)は,エンディングノートには自分の過去の思い出(自伝的記憶)の記入欄があるものが多いことを示しているが,実際に中高年の人々に話を聞いてみると,思い出の記入欄は必要ないと答える人が多い。しかし,自分の過去を整理することによって将来自分に確実に訪れる死を冷静に展望することが可能になるとも考えられる。
そこで50代,60代,70代の男女計450名を対象にネット調査を実施し,エンディングノートに思い出の記入欄は必要であるか質問した。必要ない場合にはその理由を尋ねた。更に自伝的記憶の機能を測定するTALE尺度(落合・小口,2013)に回答を求め,自伝的記憶必要群と不必要群におけるTALE尺度の自己継続機能,行動方向づけ機能,社会的結合機能得点を比較した。
エンディングノートに思い出の記入欄が必要だと回答したのは20%~40%で70代が多く,死が身近な年齢が近づくにつれて過去の想起が重要になることが示唆された。また自伝的記憶必要群におけるTALE尺度3因子の得点は,不必要群よりも有意に高く,自身の死を見つめる際に自伝的記憶を必要とする人ほど自伝的記憶を自己,社会,方向づけの3機能に用いることが示された。思い出が必要ない理由は「過去は人それぞれの心にとどめておけばよいと思うから」「過去は過去で残しておく必要はない」「たいした思い出がない」などであり,不必要群は自伝的記憶の機能を必要とせず過去肯定が低い傾向が示唆された。本シンポジウムでは以上の結果から,死を展望する際の自伝的記憶の機能と時間的展望の関係について展望する。
本シンポジウムでは,自伝的記憶の機能や自伝的推論などに関する一般的な話題提供に続いて,児童期から老年期に至る各ステージにおいて自伝的記憶がどのような機能を持ち,どのような介入,はたらきかけが自伝的記憶の機能の十分な発揮に繋がるのか,などについて具体的な話題提供をいただく。各話題提供者は,生涯の各ステージにおいて自伝的記憶が果たす役割について,それぞれの考え方に基づき,実践的に研究されてきた研究者である。具体的でかつ示唆に富んだ話題提供がいただけるものと思われる。
これらの話題提供に基づき,自伝的記憶の機能が広い意味での教育の中でどのように捉えられ,生かされるのか,自伝的記憶研究を教育において役立てるためにはどうしたらよいのか,などについて話題提供者,指定討論者,フロアの先生方と共に議論したい。
以下,各話題提供の概要を示す。
自伝的記憶の機能と自伝的推論
佐藤浩一
自伝的記憶の研究テーマは「構造」と「機能」に分けられる。初期には,「いつの出来事が想起されやすいか」「どういう手がかり語が記憶を引き出しやすいか」等,構造に関わる検討が多かった。その後,機能に関する検討が盛んになった。
自己・方向づけ・社会という3つの機能は,特定の理論や研究から引き出されたものではない。自伝的記憶とパーソナリティとの関連,鮮明な記憶の語り,自伝的記憶の再構成,経験からの教訓学習等々,多様な研究の蓄積から次第に定説化したものである。近年は3機能を測定するTALE尺度も開発され,3機能すべてを含む検討が可能になった。
しかし過去経験やその記憶は,最初から,何らかの機能を担っているわけではない。その経験を想起し意味づけることを通して,機能が発揮される。こうした意味づけは自伝的推論と呼ばれ,自伝的記憶だけでなく,心的外傷後成長,高齢者の回想,ライフストーリーなど様々なテーマのもとで検討されてきた。本シンポジウムでの話題提供は,いずれも,生涯の各ステージで,人がどのように自分の記憶を確認し,意味づけるかを検討したものと捉えることができる。「自伝的推論尺度」を用いた筆者の検討では,ネガティブ経験よりポジティブ経験の方が強い自伝的推論を引き出しやすいこと,ポジティブ経験に対する自伝的推論が自尊感情やアイデンティティ確立等と関連することが見出された。
個人の意味づけの内実を捉えるためには,質的なアプローチも求められる。筆者は現在,学部生・院生の教育実践経験の意味づけを,半構造化面接や実習記録の分析を通して探っている。各人に独自の主題が語られた。また「主題」と表現されなくとも,同様のテーマが繰り返し語られることもあった。実践上の成功・失敗は自分を表すものとして意味づけられる(自己機能)とともに,次に生かされ(方向づけ機能),後輩に与えるアドバイスの素材となる(社会機能)ものであった。
児童養護施設におけるライフストーリーワーク
楢原真也
「私のお母さんはどんな人なんだろう…」,「僕はどうせ捨てられた子どもなんでしょ」。児童養護施設で暮らす子どもたちは,自分の意志とは無関係に,住み慣れた地域や慣れ親しんだ友人たちと離れ,生活をしている。そのため,子どもたちの中には,なぜ施設で暮らすのか理解していなかったり,「自分が悪いから施設に来た」と考えている者もいる。入所前の度重なる分離・喪失体験や養育者の交代,慢性的な被虐待体験などによって過去の記憶が想起できなかったり,自己評価や自尊心が大きく低下していることもある。容易に打ち明けられない秘密を抱えてしまうことによって,他者との疎外感や隔絶感が生まれてしまうこともあれば,両親の名前,名前の由来,血液型,出生地,国籍など自分を構成するはずのごく基本的な情報さえ知らず,アイデンティティの曖昧さに苦しんでいることもある。
このような事情から,子どもたちは自分の出自や家族にまつわる事柄に思い悩み,自分なりの答えを求めていることがほとんどである。彼らの自伝的記憶には必然的にネガティブな要素,空白,混乱,ファンタジーなどが含まれることも多い。
ライフストーリーワークは,こうした社会的養護のもとで暮らす子どもたちと,彼らにとっての重要な事実(生い立ち,家族の状況,入所理由など)を支援者との間で分かちあい,肯定的な自己物語を形成するための支援である。
事実をわかちあっていく支援は子どもたちに必要であるが,本人に伝える/本人から語られる内容は,決して肯定的なものばかりではない。子どもたちが厳しい事実に直面せざるをえなくなったとき,それまでに施設の生活を通して得られた良き出会いや楽しい記憶の集積が子どもの背中をそっと後押しするものでありたいと考えている。
青年期の自伝的記憶における自己機能とアイデンティティ
山本晃輔
アイデンティティの確立は,青年期の発達を考える上で極めて重要な課題である。アイデンティティの形成に関わる要因には様々なものが挙げられるが,なかでも自伝的記憶はその中心的な役割を果たしている。自伝的記憶は自己の構成要素であり,その集合体が個人のアイデンティティを形成している。我々は,青年期に入ると「自分は何者であるのか」という問いを自分に課し,その答えを導きだそうとする。このような過程の中で,これまでの生涯を振り返り,自伝的記憶を想起し,過去の自分を再認識する。そして,過去および現在における自分と社会が認めかつ期待している自分とを統合することを通して,アイデンティティを確立させていく。このようなプロセスは自伝的記憶の自己機能の一端である。
本話題提供では,自伝的記憶の自己機能に注目し,アイデンティティの確立と自伝的記憶における双方向の関係性を検討した研究を紹介する。アイデンティティの確立度が自伝的記憶の想起に及ぼす影響を検討した研究では,アイデンティティの達成度を尺度によって高群と低群に分け,群間における自伝的記憶の差異が検討されてきた。筆者の研究では,アイデンティティの確立高群の方が低群よりも意図的および無意図的に想起される自伝的記憶の重要度や情動特性が高いことが示された。また,自伝的記憶の想起がアイデンティティの確立に及ぼす影響を検討した研究では,重要度が低い自伝的記憶の想起前後では,アイデンティティの確立度に変化がみられないが,重要度が高い自伝的記憶では想起前よりも想起後の方がアイデンティティの達成度が高くなった。さらに,アイデンティティと動機づけの関係に注目し,自伝的記憶の想起が動機づけに及ぼす影響に関する研究についても紹介する。これらの研究を生涯発達の視点から議論することを通して,今後の展開について考えたい。
青年期から中年期の人生の語り直しと時間的展望
白井利明
リクールによれば語りとは行為の再現(生き直すこと)であるが(厚東,1991),人生の語り直しは自伝的記憶と大いに関係がある。私の行った20代から40代の時間的展望の縦断研究から考える。
加齢により人生に対する見方が肯定化することは知られている。その理由として,社会情動的選択性理論(カールステンセンら,2008)によれば,残された人生の時間が短くなると,限られた資源を活用するため,情動調整の優先順位が上がるためだと説明される。また,ビリンら(2008)によれば,加齢によりネガティブな記憶よりもポジティブな記憶のほうが再生されやすくなる。自己を自分や他人に語る際にトップダウンの見方をさせ,生成する価値と目標に一致させるようにしむけるからだと説明される。
私は27年間に及ぶ縦断研究で20代と40代に同じ時期への意味づけを繰り返し聞いてきた。その結果,出来事の記憶自体は変化しないが,その意味づけは現在の満足によって左右されていた。たとえば「現在が満足しているから当時のことも満足している」といった逆行の意味づけである。40代で当時の意味づけの記憶を聞くと,記憶の内容は変容していないが,アクセスする出来事が違うことがあった。これらは20代と40代で大きく違うようには思われなかった。むしろ個人差が大きかった。逆行の意味づけを拒否し,常に今を生きようとする語りもあったからである。また,必ずしもポジティブな記憶ばかりではなく,ネガティブな記憶も少なくなかった。そして,ネガティブな記憶との対比で,人生を肯定的に意味づけることが見られた。たとえば,「ネガティブな経験があるからこそ今の自分がいる」といった語り方である。
結局,自伝的記憶は,ネガティブなものであっても過去の「私」を保持し,それと対比することで,未完と未定の人生を他者とともに生きるためのものだと思われる。
エンディングノートにおける中高年の自伝的記憶の機能
下島裕美
自分に「もしも」のことがあったときのために,家族や周囲の人に伝えておきたいことを記しておくノートをエンディングノートという。下島 (2015)は,エンディングノートには自分の過去の思い出(自伝的記憶)の記入欄があるものが多いことを示しているが,実際に中高年の人々に話を聞いてみると,思い出の記入欄は必要ないと答える人が多い。しかし,自分の過去を整理することによって将来自分に確実に訪れる死を冷静に展望することが可能になるとも考えられる。
そこで50代,60代,70代の男女計450名を対象にネット調査を実施し,エンディングノートに思い出の記入欄は必要であるか質問した。必要ない場合にはその理由を尋ねた。更に自伝的記憶の機能を測定するTALE尺度(落合・小口,2013)に回答を求め,自伝的記憶必要群と不必要群におけるTALE尺度の自己継続機能,行動方向づけ機能,社会的結合機能得点を比較した。
エンディングノートに思い出の記入欄が必要だと回答したのは20%~40%で70代が多く,死が身近な年齢が近づくにつれて過去の想起が重要になることが示唆された。また自伝的記憶必要群におけるTALE尺度3因子の得点は,不必要群よりも有意に高く,自身の死を見つめる際に自伝的記憶を必要とする人ほど自伝的記憶を自己,社会,方向づけの3機能に用いることが示された。思い出が必要ない理由は「過去は人それぞれの心にとどめておけばよいと思うから」「過去は過去で残しておく必要はない」「たいした思い出がない」などであり,不必要群は自伝的記憶の機能を必要とせず過去肯定が低い傾向が示唆された。本シンポジウムでは以上の結果から,死を展望する際の自伝的記憶の機能と時間的展望の関係について展望する。