日本教育心理学会第61回総会

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自主企画シンポジウム

[JF04] JF04
アートと教育

日本におけるArts-based educational researchの展開

Sun. Sep 15, 2019 4:00 PM - 6:00 PM 3号館 3階 (3304)

企画・司会・話題提供:石黒広昭(立教大学)
話題提供:岡田猛(東京大学)
話題提供:小松佳代子#(長岡造形大学)
話題提供:高木紀久子#(東京大学)

[JF04] アートと教育

日本におけるArts-based educational researchの展開

石黒広昭1, 岡田猛2, 小松佳代子#3, 高木紀久子#4 (1.立教大学, 2.東京大学, 3.長岡造形大学, 4.東京大学)

Keywords:アート、教育、Arts-based research

 アートと教育にはどのような関係があるのだろうか。そう問われたならば,誰でもがそのアートは何を指すのか。その教育とはなんのことかとその内実を問わずにはいられないだろう。これに対する逃げ口上として,とりあえずそこに何を想定するのか自体が,その人のアート観,教育観を表すとしておきたい。ただ,両者の関係には2つの方向性を考えることができる。一つは促進関係(art for)である。この場合,アートはすでにある教育活動の目標を達成する上でそれを推し進める道具,装置として機能することが期待される。アートを技術の体系として捉える立場からは,その技術をどのように使うのかが重要であって,その技術を使う目的はアートとは無関係であってもかまわない。英語を学ぶために,演劇手法を使うことは,パフォーマンスアーツの技法の利用であって,別にそれをアートと呼ぶ必然性はない。実践の中で「アートにもとづく教育(Arts-based education)」といった時,実はこうした技法の利用が暗に想定されていることも少なくはない。
 他方で,アート活動はむしろ既存の価値に抗い,新たな意味を求めてさまよう,世界に対する対峙の仕方であると考えることもできる。活動理論のものいいをすれば,活動(activity)が向かう「対象(object)」を変更し,活動そのものを組み替えていくものとなる。教育活動においても,アートはそれまで当たり前とされてきた価値観に疑いの眼差しを向け,当事者に戸惑いをもたらしたり,教育目標を変えてしまったりするような場合(art against)である。Finely(2014)はアートの持つ批判性を強調し,Critical arts-based researchという言い方をすることでこうした立場を強調する。それはカルチュラルスタディーズにつながる,アートに基づいた美的で政治的,倫理的な活動(work)である。そうであれば,アート活動はそのアート活動に参与する一人一人の問題であるだけでなく,その人々を内包するコミュニティの問題でもある。
 アート活動を「アート的」技術の習得とその利用と捉えるならば,そこで問題になるのは「個人の習得」である。しかし,個人に意味変更をもたらす活動はその個人が参与する活動の対象を変更することを通して必ずその周りにいる人たちに影響を与える。アートが社会変革に結びつくのはそのようなアート活動が持つ強い引き込みの磁力であり,他者を巻き込む対話性である。このシンポジウムでは4名それぞれがアートと教育の関係を具体例を通して論じる。この二つの間にどのような関係があるのか自由活発に論じることで,結果的に教育に関連してアート活動が持つ魅力とその危険性,課題が浮かび上がることを期待している。
参考文献
Finley, S. (2014) An Introduction to Critical Arts-Based Research. Cultural Studies↔ Critical Methodologies, 14(6) 531–532.

アートがもたらす知性―ABRの実践研究
小松佳代子
 アートによってわたしたちは何を学んでいるのだろうか。その場合の「学び」は,教授-学習理論で言われるような学習とも,人間の成長・発達を促す学びとも異なるように思う。もしかしたら「学び」と呼ばない方がいいのかもしれない。アートは時に教育と齟齬を来す。教育に資するアートだけでは抜け落ちてしまうものがあまりに多い。おそらくアートにもとづく教育とは,従来の教育が前提としてきた知のあり方を揺るがすものになる。それを「感性」と呼んで,他の学問や教科のもたらす「知性」と区別することはある意味で簡単である。アートは感覚や感性に関わるものであることは間違いない。だがそれを感性も含めた知性を育むものだと位置づけ直さなければ,アートはいつまでたっても「周辺教科」のままである。あるいは,創造的な思考によるイノベーションが着目される近年の動向に棹さすだけのものになってしまう危険もある。
 アートがもたらす知性とはどのようなものなのか。それを何とか示したい。本発表では,芸術家が働かせている想像的でかつ創造的な探究や思考を「研究」として位置づけるABR(Arts-Based Research)の実践として,発表者がここ数年携わってきた実践研究について報告する。一つは,2016年から2017年にかけて東京都現代美術館と小学校の図工授業,さらにアーティストのあいだを鑑賞と制作によってつないで考察した実践。もう一つは,アーティストの日常的に制作している作品とABRの作品,両者について考察してアーティスト自身が書いたテキストを展示したABR on ABR展(2019年3月23日~4月7日長岡造形大学ギャラリー)。両者から見えてきたことは,「積層と一望」「意味と形の融合」「意味の場の解体と自らの意味世界の構築」といったキーワードである。ABRの実践を通して,アーティスト自身がさらにどう思考を深めたのかも含めて報告したい。
付  記
 本研究は基盤研究(B)18H00622の助成を受けている。

Art-inspired methodに関する一考察
岡田 猛
 我々は,これまでアートの創作プロセスを解明するart researchを積み重ねてきた。今回の発表ではその研究成果に基づいて,まずアートの創作プロセスの特徴を説明し,そのような創作プロセスの要素を他分野の研究や教育に導入するart-inspired methodのあり方について,研究事例を紹介しながら論じる。アートのプロセスを研究に導入するart-based researchのアプローチは,小松(2018)の論考に詳しく,また今回のシンポジウムでも小松らによる優れた実践例が紹介されるが,我々は研究者の主観性を強調する社会学や教育学でのart-based researchの捉え方を少し拡張し,諸学問の研究や多様な教育場面における様々な形でのアート要素の導入のあり方として,art-inspired method (in education and research)を提唱する。これは,例えばデザインの文脈では,デザイン思考に対するアート思考の提案と重なる要素を持っており,その動向についても話をしたい。
 上述の議論に基づき,今回の自主シンポジウムの発表では,アートを利用した哲学対話の実践や認知科学の研究成果の美術館での展示,芸術と他分野の学問や実践を融合させた教育実践の紹介等を行うことで,art-inspired methodの持つポテンシャルと弱点について考察したい。

大学における新しい芸術の形の可能性
高木紀久子
 日本の総合大学における芸術の実践的な授業の必要性は,これまで多様な議論がされてきた。座学による学びの域を超えて,実践的な体験を通じて芸術の創作や実演の場に触れることは,いかなる人間的な営為にも必須である感性の涵養に資する。さらに芸術実践を介した探索は新しい知の技術をもたらし、その先の専門的な各学問領域における創造性の向上に通じることが考えられる。しかし同時にこれはさまざまな制約の下でなかなか実施することが難しいのも事実であった。
 このような背景のもと,ここ近年東京大学では芸術の実践的な授業が複数の部局で実施され始めた。一流のアーティストを講師として招き,学内の教員と組む形で開始したことは,本学の長い歴史の上でも画期的なできごとである。おりしも,本学内部においても,芸術の実践的な授業の必要性がこれまで以上に強く説かれ,複数の部局を横断した連携研究と教育を展開しようとする動きが生まれた。学内で多くの検討が積み重ねられ,本年度5月より芸術創造連携研究機構として発足の運びとなったことは,時代の流れのなかでも実に時宜を得たものである。しかし,国内の一般大学ではこのような事例がほとんどなく,実際の運用については今後更なるリサーチが求められる。
 上記の議論に基づき,本シンポジウムでは機構の概要ならびに研究・教育活動についての事例の紹介等を通じて,大学における新しい芸術の形の可能性について考察したい。

アーティストは学校実践への参加によって何を学ぶのか。
石黒広昭
 アーティストが学校教育や社会教育の場でワークショップを行うことは今や常態であり,視覚芸術はもとより,パフォーマンスアートでもよく見られることである。その多くは単発,あるいは数回断続的に学校や公民館などにアーティストが訪問してその得意とする領域の活動を実施するものである。その中の1つにアーティストが一定期間学校に滞在するArtist in Schoolという活動がある。昨年度はその活動の一旦を紹介し,子ども,教師,保護者など学校側のステークホルダーがどのような「学び」をしているのか,学校という実践の場がどのように変容するのかに焦点をあてて紹介した。通常アーティストと教育の関係を考える時,その関心の所在は,学校側がアーティストから何を学んでいるのかという,「非アーティスト側」の学びに関わるものである。このことは,アーティストの意図にかかわらず,アーティストの教育力を問うものとなる。すなわち,アーティストが何かを教える意図がないとしても,アーティストが学校に来ることによって,そこには必然的に「教えるー学ぶ」関係が生じると考えられるのである。しかし,アーティストが「アート」を学校においても実践し続けているとすれば,アーティストは,何かしらの目標を持ち,子どもたちにそれを達成してほしいと教えかたを工夫する「教師」にはなれないはずだ。アーティストはその意味で学校に「毒」を持ち込む存在であり,学校に入り込んだ後にその「毒」を拡散しながら既存の学校実践の価値のあり方に疑念や再考を促す存在となるだろう。こうした「異物」としてのアーティストは学校実践に参与した後も「教師化」することなく,「異物」で居続けることは可能なのか。さらには,自らの異物性を学校の中の他者に伝播しうるのか。そして何よりアーティストは学校滞在から自らの創作活動に対して何か影響を受けるのかと問う必要があろう。
付  記
 本研究は基盤研究(B)17H02710の助成を受けている。