4:15 PM - 4:30 PM
[T8-O-9] Ainu oral traditions concerning tsunami in Shiraoi, Hokkaido: An approach toward the interpretation of 17th century large tsunamis
Keywords:Ainu, tsunami, Hokkaido, oral tradition
【はじめに】 北海道を来襲した直近の巨大津波は17世紀のものと考えられており,太平洋沿岸および内浦湾沿岸において津波堆積物が広い範囲で確認されている.17世紀の巨大津波は,道東海岸のいわゆる“500年間隔地震”による津波,1640年北海道駒ヶ岳の山体崩壊起源津波,胆振地方中東部海岸の波源不明の津波の3つでまとめられる(高清水,2013).その中で,胆振地方の白老町からむかわ町に至る海岸においては,津波堆積物の存在が認められているが,その波源については未だに解明されていなく,上記にまとめられた500年周期のプレート境界型地震,1640年北海道駒ヶ岳噴火に伴う山体崩壊の他,1611年慶長三陸地震などが候補として挙げられている(高清水ほか,2007).
【白老周辺における17世紀の津波堆積物】 白老町においては,東部の社台地区で津波堆積物の存在が報告されており(Nishimura & Miyaji 1995),苫小牧市の東部からむかわ町まで至る海岸線に沿って,約20 kmにわたる範囲で津波堆積物が認められている(高清水ほか,2007).これら胆振地方中東部海岸の津波堆積物は,1663年の有珠bテフラ(Us-b)と10世紀の白頭山苫小牧テフラ(B-tm)との間の泥炭層中に介在する砂層として特徴づけられ,Us-bの直下に厚さ数mmの腐植層を介して堆積している(中西ほか,2014など).
【白老における津波に関するアイヌ民族の口承】 白老アイヌは,1620年にイペニックルが日高より少数の部下を率いてウトカンベツ川付近に集落をつくったことから始まると言い伝えられている(白老町町史編さん委員会,1992).白老アイヌの口承の中には津波に関する内容が確認できる.1910~1940年代にかけて満岡伸一氏が白老アイヌの風習を聞き取りした内容によると,津波は海の悪神のルㇽプㇽケクㇽ〔潮を湧かす者〕,別名アトゥイコㇿエカシ〔海の主翁〕が人間世界に危害を加えるための悪戯であるとされている.この悪神が津波を起こそうとするときは,大きな口を開けて海水を一時に飲み,しばらくして,またそれを一時に吐き出し,陸地に侵す大津波となると言い伝えられている.また,近く津波があることが予知されると,全集落の者が集まり津波除けの儀礼を行うという(満岡,2003).1970年代に岡田路明氏が実施した聞き取り調査では,大正生まれの女性の口承で,津波が起こったときの避難場所が白老周辺に4ヶ所あったとされている(シンほか,2022).その中で,大きい規模の津波が予想されるときに避難する「キラウシ」と呼ばれる樽前川沿いの高台があり,地名の「キラ」はアイヌ語で「逃げる」,「ウシ」は「いつも...する所」の意味である.また,白老コタン〔村〕の起源についてはいくつかの伝承が存在し,各伝承の内容に違いはあるが,共通して大津波による集落全滅の内容が含まれている.その中では,大津波の後生き残った者(シシラオイウンクル)と,日高地方からウトカンベツ川付近に移住してきた者(ウトカンペトゥンクル)など,白老アイヌの三つの家系について具体的な内容を含んでいる伝承もある(北海道ウタリ協会白老支部,1998).
【おわりに】 17世紀胆振地方中東部海岸における巨大津波の波源の候補として,1611年慶長三陸地震と1640年北海道駒ヶ岳噴火などが挙げられている.波源については,津波堆積物や歴史記録から研究が進んでいるが,本発表ではアイヌ民族の口承からアプローチした.白老アイヌの口承からは,津波という自然現象に対する認識を含め,避難場所のような防災の観点も読み取ることができる.白老コタンの起源に関するいくつか口承においては,共通して巨大津波による集落全滅の内容が含まれており,津波の生存者とその後の移住者に関する具体的な情報を提示する伝承もある.それによると,津波の後,日高地方からウトカンベツ川に移住したのは1620年のことであり,17世紀に白老周辺を襲った巨大津波の波源は1611年の慶長三陸地震である可能性が高い.
<引用文献> 白老町町史編さん委員会(1992)『新白老町史 上巻』白老町,478p.シンほか(2022)国立アイヌ民族博物館研究紀要,1,印刷中.高清水康博(2013)地質学雑誌,119,599-612. 高清水康博ほか(2007)第四紀研究,46,119-130.中西諒ほか(2014)地学団体研究会専報,60,169-178.Nishimura & Miyaji(1995)Tsunamis: 1992–1994,719-733.北海道ウタリ協会白老支部(1998)『白老支部の50年-白老支部設立50周年記念誌-』社団法人北海道ウタリ協会白老支部,32p.満岡伸一(2003)『アイヌの足跡』財団法人アイヌ民族博物館,240,66p.
【白老周辺における17世紀の津波堆積物】 白老町においては,東部の社台地区で津波堆積物の存在が報告されており(Nishimura & Miyaji 1995),苫小牧市の東部からむかわ町まで至る海岸線に沿って,約20 kmにわたる範囲で津波堆積物が認められている(高清水ほか,2007).これら胆振地方中東部海岸の津波堆積物は,1663年の有珠bテフラ(Us-b)と10世紀の白頭山苫小牧テフラ(B-tm)との間の泥炭層中に介在する砂層として特徴づけられ,Us-bの直下に厚さ数mmの腐植層を介して堆積している(中西ほか,2014など).
【白老における津波に関するアイヌ民族の口承】 白老アイヌは,1620年にイペニックルが日高より少数の部下を率いてウトカンベツ川付近に集落をつくったことから始まると言い伝えられている(白老町町史編さん委員会,1992).白老アイヌの口承の中には津波に関する内容が確認できる.1910~1940年代にかけて満岡伸一氏が白老アイヌの風習を聞き取りした内容によると,津波は海の悪神のルㇽプㇽケクㇽ〔潮を湧かす者〕,別名アトゥイコㇿエカシ〔海の主翁〕が人間世界に危害を加えるための悪戯であるとされている.この悪神が津波を起こそうとするときは,大きな口を開けて海水を一時に飲み,しばらくして,またそれを一時に吐き出し,陸地に侵す大津波となると言い伝えられている.また,近く津波があることが予知されると,全集落の者が集まり津波除けの儀礼を行うという(満岡,2003).1970年代に岡田路明氏が実施した聞き取り調査では,大正生まれの女性の口承で,津波が起こったときの避難場所が白老周辺に4ヶ所あったとされている(シンほか,2022).その中で,大きい規模の津波が予想されるときに避難する「キラウシ」と呼ばれる樽前川沿いの高台があり,地名の「キラ」はアイヌ語で「逃げる」,「ウシ」は「いつも...する所」の意味である.また,白老コタン〔村〕の起源についてはいくつかの伝承が存在し,各伝承の内容に違いはあるが,共通して大津波による集落全滅の内容が含まれている.その中では,大津波の後生き残った者(シシラオイウンクル)と,日高地方からウトカンベツ川付近に移住してきた者(ウトカンペトゥンクル)など,白老アイヌの三つの家系について具体的な内容を含んでいる伝承もある(北海道ウタリ協会白老支部,1998).
【おわりに】 17世紀胆振地方中東部海岸における巨大津波の波源の候補として,1611年慶長三陸地震と1640年北海道駒ヶ岳噴火などが挙げられている.波源については,津波堆積物や歴史記録から研究が進んでいるが,本発表ではアイヌ民族の口承からアプローチした.白老アイヌの口承からは,津波という自然現象に対する認識を含め,避難場所のような防災の観点も読み取ることができる.白老コタンの起源に関するいくつか口承においては,共通して巨大津波による集落全滅の内容が含まれており,津波の生存者とその後の移住者に関する具体的な情報を提示する伝承もある.それによると,津波の後,日高地方からウトカンベツ川に移住したのは1620年のことであり,17世紀に白老周辺を襲った巨大津波の波源は1611年の慶長三陸地震である可能性が高い.
<引用文献> 白老町町史編さん委員会(1992)『新白老町史 上巻』白老町,478p.シンほか(2022)国立アイヌ民族博物館研究紀要,1,印刷中.高清水康博(2013)地質学雑誌,119,599-612. 高清水康博ほか(2007)第四紀研究,46,119-130.中西諒ほか(2014)地学団体研究会専報,60,169-178.Nishimura & Miyaji(1995)Tsunamis: 1992–1994,719-733.北海道ウタリ協会白老支部(1998)『白老支部の50年-白老支部設立50周年記念誌-』社団法人北海道ウタリ協会白老支部,32p.満岡伸一(2003)『アイヌの足跡』財団法人アイヌ民族博物館,240,66p.