130th Annual Meeting of the Geological Society of Japan

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Session Oral

T10[Topic Session]Culture geology【EDI】

[3oral601-10] T10[Topic Session]Culture geology

Tue. Sep 19, 2023 8:45 AM - 12:00 PM oral-06 (37-North Wing, Yoshida-South Campus Academic Center Bldg.)

Chiar:naoki takahashi(Natural History Museum and Institute,Chiba), masaya SAKAMOTO, Yukiko OHTOMO

11:15 AM - 11:45 AM

[T10-O-19] [Invited] The Spirit and Skills of Past Master Gardeners as Seen in Garden Stones

【ハイライト講演】

*Tomoki Kato1,2 (1. Kyoto University of the Arts Art and Environment Major Environmental Design Field, 2. UEYAKATO LANDSCAPE Co.,LTD.)

世話人よりハイライトの紹介:加藤氏は,植彌加藤造園の社長として京都市内の名庭の維持管理を行ってきただけでなく,京都芸術大学大学院日本庭園分野の教授として,庭園文化の研究も進められている.京都の庭園文化,造園の歴史,植木だけでなく岩石の作庭における役割,石材選択の変化等について,地質学者とは異なった視点からの講演である.※ハイライトとは

Keywords:Japanese garden, The Spirit and Skills, Sakuteiki, Shirakawasuna(Kougetsudai and Ginsadan), chert

『作庭記』は橘俊綱により平安時代中期に編纂されたとされる作庭書であるが、『作庭記』の書名は江戸時代に塙保己一編纂『群書類従』に収録された際につけられたものである。造園技術を伝える本書は国内最古の資料であり、その中では庭の石組を「石立」と呼んでいる。鎌倉や室町時代には作庭に僧侶が関わることも多く、彼らを「石立僧」とも称し、石を立てることはすなわち庭を作ることと同義であった。当時の造園技術を具体的にみることができ、現在でも同じ工法技法を採っている事例も少なくない。造園の歴史を考え、その技術を現代に活かす上で大変興味深い貴重な資料である。
 森蘊『「作庭記」の世界 平安朝の庭園美』(日本放送出版協会,1985年)では、内容を11項目に大略し、原文を795行に整理し現代語訳を併記されており、現代の読者が理解を進めるのに大きな役割を担ったといえる。「作庭記」では一貫して、庭に石を用いる際には自然に倣うことを基本とする姿勢がみられ、そのうえで、「人のたてたる石は生得の山水にはまさるへからず」と、人間の立てた石は自然の風景には敵わないとも述べており、はるか昔の先達と現代の私が抱く同じ想いに、造園技術の奥深さを感じずにはいられない[1]。
 ところで、森は前掲書中で「京都周辺はその地質から見て、昔から庭石の豊富な産地として知られ、平安時代の貴族たちはそれを購入して作庭に利用している」[2]と述べている。当時の主流であった寝殿造庭園では石組が重要視されていたが、「いかめしくおほきなる山石のかとあるをたてしむへきなり」とあるように、「非常に大きな山石の稜角のあるものを立てさせるがよい。」[3]と、かどのある見栄えのある角張った石が好まれたといえる。「山石」とは京都盆地を囲む山々で産出するチャート(chert)(図1)のことで、こうした稜角のある石材が京都近郊の山や谷から産出されていた。
 一方で、京都では遠方から運ばれた石は「名石」とされ、「青石」と称される紀州や阿波に産する結晶片岩や小田原の根府川石などが珍重された。一例をあげると室町時代の枯山水庭園の大仙院書院庭園には、阿波の「青石」を舟に見立てており、江戸時代には藪内家・燕庵の大きな踏分石の「三つ小袖石」、表千家露地の空堀に掛かる石橋など、茶庭での根府川石の使用が知られている[4]。『和漢三才図会』(1713年)には、根府川石が当時の京都では貴重であったことが伝わり、その理由として高い運搬費があげられている。
 石の移動が難儀であるため庭石は近隣に産するものを使用することが常で、庭園においては永らく地産地消の原則が大前提であった。土地の性質を活かして人の手によって創り出された代表的なものとして、京都慈照寺の「向月台」と「銀沙灘」(図2)を挙げることができる。これらの石材は、庭園の背後に連なる山から、風化して流出細粒化した花崗岩(コス)が園池に溜まったものである。それを浚渫して蓄積した「白川砂」を利用して造形したものと考えられている。「白川砂」は比叡山から如意ヶ岳間より産出する花崗岩由来の砂で、慈照寺はまさにその産地の最南端に位置している。
 さらに興味深いことに、慈照寺参道の石畳には加茂七石の1つ、「八瀬真黒石」(図3)としても知られるホルンフェルスが使用されている。京都市においてホルンフェルスの産出地は比叡山の北側と如意ヶ岳の南側の2か所あるが、この石畳で使用されている石は川石である。背後の山から直接運ばれたわけではない。この石は泥岩が熱変性したホルンフェルスが山から川へ運ばれ表面が滑らかとなり、かつては高野川の渓流に見られた。慈照寺に「八瀬真黒石」の石畳が作られており、ここにも地産地消を原則とした作庭の際の石材選択を見ることができる。
 平安時代には、「かどある山石」としてチャートのゴツゴツとした風情が最も愛されてきたが、室町時代になると、結晶片岩の青色が庭のアクセントとして好まれるようになる。近代においては赤銅色の鞍馬石や縞目のある守山石(図4)が流行するなど、時代の潮流があった。
 現在のように地質や岩石の性質が明らかになる前から、昔の人も石を自然に倣いながら庭づくりを行ってきた。石は何億年もの歳月、壮大な自然の輪廻を感じ取れるものであり、先達の仕事の偉大さが大変感慨深く思われる。
[1] 加藤友規(2022)「作庭記における「石」について-先行研究にみる内容大略に関する一考察」日本造園学会 日本庭園の「こころ」と「わざ」に関する研究推進委員会 2021年度成果報告 [2] 森蘊(1986)『「作庭記の世界」』,日本放送出版協会,p117 [3] 前掲書,p45 [4] 中村一・尼﨑博正(2001)『風景をつくる』,昭和堂,p334