[T5-P-2] Nappe Tectonics of the Kanto Mountains and Median Tectonic Line
Keywords:Median Tectonic Line, Kanto Mountains, Ryoke Nappe, Ushibuseyama Nappe, Atogura Nappe
関東山地北縁部の牛伏山ナップ:中新世の東北日本は15Maごろに西南日本と衝突し接合した.接合境界は関東平野に想定される関東構造線(KTL, Figure A)である.このテクトニクスによって牛伏山ナップが形成され,吉見変成岩に低角断層[1]やマイロナイト化帯[2]が形成される.牛伏山ナップは,庭谷不整合と牛伏山スラストの間の褶曲・衝上断層帯[3]を構成する地質体である.牛伏山ナップが南方に移動する過程で褶曲・衝上断層帯と牛伏山スラスト(Figure 1)が形成されたと考える.牛伏山スラストは西方の下仁田地域に連続している[4].牛伏山スラストは関東山地の三波川変成岩の北限を画する断層であり中期中新世の中央構造線(MTL)とされている[5].ただし,下仁田の牛伏山ナップを構成する地質体は,領家外縁帯[6]起源である.領家変成岩は牛伏山ナップから報告されていない.
下仁田の牛伏山ナップ:Figure 2は既存の地質図[4,7]に基づいた下仁田地域の地質図である.これによると,牛伏山スラストの西端部は,三波川変成岩を回りこむように東西方向から北西-南東方向に急変している.回り込まれている三波川変成岩(Figure 2の右下部分)は,牛伏山ナップの構造的下位にあった地質体である.牛伏山ナップの地質体は,古第三紀の赤津層,白亜紀および古第三紀の神農原礫岩,白亜紀の骨立山凝灰岩,ジュラ紀の南蛇井層および中新統などである.これらの構造的下位に三波川変成岩が分布している.問題は,地下での三波川変成岩の広がりである.鏑川西方や北方の南蛇井層や花崗岩類の分布域に東西性の大断層が認められないので,地域全体が牛伏山ナップであって,全域に牛伏山スラストと三波川変成岩が伏在している可能性が高い.この牛伏山ナップの地質構造は複雑であり,古第三紀初期頃の地質復元が困難である.
牛伏山ナップを切断する高角断層:大北野-岩山断層と馬山-金井断層は牛伏山スラストを高角度で切断し[4],地下で三波川変成岩を切断する東西性の断層である.したがって地体構造上の大断層(MTL)ではない.下仁田町の馬山-金井断層は東方に続き,場所によっては三波川変成岩と中新統が接する断層となる.藤岡市金井の馬山-金井断層は,Figure 3の地質図[8]では金井断層と呼称されている.金井断層の南方には三波川変成岩に囲まれた下部中新統牛伏層の岩塊が複数存在する.地点Xの岩塊は,周囲の三波川変成岩よりも低所に分布しており,三波川変成岩の上昇テクトニクスが明らかである.
領家ナップのルートゾーン:寄居-小川地域の跡倉ナップには領家外縁帯(Figure B)起原のチャート,泥岩,寄居層,寄居酸性岩類が分布しているが,それらは領家ナップによって被われていた.領家ナップには跡倉ナップに確認されていない領家変成岩(黒雲母+白雲母片岩,片麻岩,黒雲母を含む低温変成岩)やマイロナイトや黒雲母±菫青石ホルンフェルスや片麻状トーナル岩などがかなり広範囲に分布していた.下仁田地域についても領家外縁帯起原の南蛇井層や神農原礫岩や骨立山凝灰岩などは,跡倉ナップの一部として三波川変成岩の上に移動し,その後,領家ナップに被われたと想定される.跡倉ナップや領家ナップの形成過程であまり移動しなかった三波川変成岩は,領家ナップのルートゾーン付近の地下で領家変成岩と接合し,古第三紀MTLが形成される.その後牛伏山ナップやKTLが形成されるが,その時期に古第三紀のMTLが受けたテクトニクスは,明らかではない.この一連のナップテクトニクスにおいて,領家ナップのルートゾーンを神農原礫岩や赤津層や寄居層の南方に想定することはできない.これらの地層は領家帯南方の領家外縁帯に堆積したもの[6]と推定されるからである.関東山地北縁部の地質を理解するには,領家ナップの形成過程を考察することが必要不可欠である.
文献 [1]小坂,1979,地質雑,No.4,157-176.[2]小野,2003,地質雑,109, No.7, 414-419.[3]高橋ほか,2006,地質雑,112, No.1, 33-52.[4]鏑川団体研究グループ,2016,下仁田町自然史館研報,第1号,41-48.[5]埼玉総会中・古生界シンポジューム世話人会,1995,地球科学,49巻,4号,271-291.[6]小野,2022, GSJ Meeting Abst. T1-P07.[7]河合ほか,2022,群馬県立自然史博物館研報,(26),75-90.[8]小野,2009, JpGU Meeting Abst. G120-P002.
下仁田の牛伏山ナップ:Figure 2は既存の地質図[4,7]に基づいた下仁田地域の地質図である.これによると,牛伏山スラストの西端部は,三波川変成岩を回りこむように東西方向から北西-南東方向に急変している.回り込まれている三波川変成岩(Figure 2の右下部分)は,牛伏山ナップの構造的下位にあった地質体である.牛伏山ナップの地質体は,古第三紀の赤津層,白亜紀および古第三紀の神農原礫岩,白亜紀の骨立山凝灰岩,ジュラ紀の南蛇井層および中新統などである.これらの構造的下位に三波川変成岩が分布している.問題は,地下での三波川変成岩の広がりである.鏑川西方や北方の南蛇井層や花崗岩類の分布域に東西性の大断層が認められないので,地域全体が牛伏山ナップであって,全域に牛伏山スラストと三波川変成岩が伏在している可能性が高い.この牛伏山ナップの地質構造は複雑であり,古第三紀初期頃の地質復元が困難である.
牛伏山ナップを切断する高角断層:大北野-岩山断層と馬山-金井断層は牛伏山スラストを高角度で切断し[4],地下で三波川変成岩を切断する東西性の断層である.したがって地体構造上の大断層(MTL)ではない.下仁田町の馬山-金井断層は東方に続き,場所によっては三波川変成岩と中新統が接する断層となる.藤岡市金井の馬山-金井断層は,Figure 3の地質図[8]では金井断層と呼称されている.金井断層の南方には三波川変成岩に囲まれた下部中新統牛伏層の岩塊が複数存在する.地点Xの岩塊は,周囲の三波川変成岩よりも低所に分布しており,三波川変成岩の上昇テクトニクスが明らかである.
領家ナップのルートゾーン:寄居-小川地域の跡倉ナップには領家外縁帯(Figure B)起原のチャート,泥岩,寄居層,寄居酸性岩類が分布しているが,それらは領家ナップによって被われていた.領家ナップには跡倉ナップに確認されていない領家変成岩(黒雲母+白雲母片岩,片麻岩,黒雲母を含む低温変成岩)やマイロナイトや黒雲母±菫青石ホルンフェルスや片麻状トーナル岩などがかなり広範囲に分布していた.下仁田地域についても領家外縁帯起原の南蛇井層や神農原礫岩や骨立山凝灰岩などは,跡倉ナップの一部として三波川変成岩の上に移動し,その後,領家ナップに被われたと想定される.跡倉ナップや領家ナップの形成過程であまり移動しなかった三波川変成岩は,領家ナップのルートゾーン付近の地下で領家変成岩と接合し,古第三紀MTLが形成される.その後牛伏山ナップやKTLが形成されるが,その時期に古第三紀のMTLが受けたテクトニクスは,明らかではない.この一連のナップテクトニクスにおいて,領家ナップのルートゾーンを神農原礫岩や赤津層や寄居層の南方に想定することはできない.これらの地層は領家帯南方の領家外縁帯に堆積したもの[6]と推定されるからである.関東山地北縁部の地質を理解するには,領家ナップの形成過程を考察することが必要不可欠である.
文献 [1]小坂,1979,地質雑,No.4,157-176.[2]小野,2003,地質雑,109, No.7, 414-419.[3]高橋ほか,2006,地質雑,112, No.1, 33-52.[4]鏑川団体研究グループ,2016,下仁田町自然史館研報,第1号,41-48.[5]埼玉総会中・古生界シンポジューム世話人会,1995,地球科学,49巻,4号,271-291.[6]小野,2022, GSJ Meeting Abst. T1-P07.[7]河合ほか,2022,群馬県立自然史博物館研報,(26),75-90.[8]小野,2009, JpGU Meeting Abst. G120-P002.