[DHSY-2] 地域のつながりで認知症高齢者の「望む暮らし」を守れ!
【略歴】
2013年 四国学院大学専門学校 歯科衛生科卒業
三豊総合病院企業団 歯科保健センター勤務
2015年 まんのう町国民健康保険造田歯科診療所勤務 現在に至る
2019年 徳島大学大学院総合科学教育部博士前期課程地域科学専攻地域創生分野修了
修士(学術)
公益社団法人日本歯科衛生士会認定分野B老年歯科認定歯科衛生士
2013年 四国学院大学専門学校 歯科衛生科卒業
三豊総合病院企業団 歯科保健センター勤務
2015年 まんのう町国民健康保険造田歯科診療所勤務 現在に至る
2019年 徳島大学大学院総合科学教育部博士前期課程地域科学専攻地域創生分野修了
修士(学術)
公益社団法人日本歯科衛生士会認定分野B老年歯科認定歯科衛生士
「S子さん、この頃ボケよるで!歯科の予約日が分からん言うて近所中に電話かけよるんじゃ。」
ある日、診療所にS子さんという患者を連れてきた住民が私にそっと耳打ちする。たしかに何となくいつもと様子が違う。あぁ、ついにこの日がきたか…と頭を抱えながら、慌てて地域ケア会議でケースに挙げる。
「あぁ!S子さんなら先日僕が初期症状に気づいて、すぐ民生委員と一緒に介護認定につないだで~」
鼻高々に(?)話す薬剤師。くっそー、また先越された!認知症の第一発見者は大抵いつも薬剤師か民生委員で、私達は「教えてもらう側」だ。
しかし、大事なのは「地域ぐるみでの支援」である。例えば先述のS子さんは近所の住民が毎日交代で見守りにきてはおにぎりを差し入れる。薬剤師は訪問ごとに部屋の掃除や布団干しなど服薬管理を超えた「暮らしのお手伝い」に着手している。看護師は冷蔵庫内のカビの生えた(!)食品を全て廃棄し、昼食作りまでやってのける。「暮らしを守るためなら何でもやる」が地域医療の掟なのだ。私たち歯科衛生士も、気づけば認知症患者の家で口腔ケアの後にご飯と味噌汁をよそって鍋を洗うようになった。
「口腔機能管理」は決して目的ではない。皆が「暮らしを守る」という共通のビジョンを見据えなければ、真の連携は成り立たない。こうした地域の強いつながり(=地域包括ケア)によって、たとえ認知症になっても望んだ暮らしが続けられるまちがつくられるのだ。
「最期まで人間らしく生きたいから、チューブでの栄養は絶対にしないでほしい。」
ある特養のミールラウンドで、アルツハイマー型認知症のMさんが尊厳死の宣言書を残していた。嚥下機能が低下しこれ以上経口摂取を続けるのは危険な状態であったが、多職種で何度も話し合い、最期まで口から食べてもらうことに決めた。
「しかし、本来予防できるはずの誤嚥性肺炎を自然死と捉えてよいのだろうか…?」
こうしたケースに出くわすたび、既存の常識に普段がんじがらめに捉われている我々の心はぐらぐら揺らぐ。本心では、生きたいように生きてほしいと願っているのに。
認知症で90代のKさんは、誤嚥性肺炎で入院し禁食を命じられた。しかし、家に帰ると妻も長女も「残り少ない人生、お父さんらしく生きてほしい」と強く望んだ。そこで看護師やリハ職、薬剤師や歯科がSNS上でタイムリーに連携して見守りながら、好きな時に柿の種やまんじゅうを食べ、セニアカーで近所を散歩するなど(ちなみに要介護5である)、自由気ままな家での暮らしを存分に満喫している。
これが医療職として正しい判断かどうかはわからない。しかし、医療の目的は決して管理することではない。ましてや家での暮らしに正解はない。皆で悩み果てた末に、本人の満足そうな笑みを見てハッと気づく。「そうだ、やっぱりこれでいいのだ!」
これからは、scienceを超えたartの視点が必要な時代なのかもしれない。
ある日、診療所にS子さんという患者を連れてきた住民が私にそっと耳打ちする。たしかに何となくいつもと様子が違う。あぁ、ついにこの日がきたか…と頭を抱えながら、慌てて地域ケア会議でケースに挙げる。
「あぁ!S子さんなら先日僕が初期症状に気づいて、すぐ民生委員と一緒に介護認定につないだで~」
鼻高々に(?)話す薬剤師。くっそー、また先越された!認知症の第一発見者は大抵いつも薬剤師か民生委員で、私達は「教えてもらう側」だ。
しかし、大事なのは「地域ぐるみでの支援」である。例えば先述のS子さんは近所の住民が毎日交代で見守りにきてはおにぎりを差し入れる。薬剤師は訪問ごとに部屋の掃除や布団干しなど服薬管理を超えた「暮らしのお手伝い」に着手している。看護師は冷蔵庫内のカビの生えた(!)食品を全て廃棄し、昼食作りまでやってのける。「暮らしを守るためなら何でもやる」が地域医療の掟なのだ。私たち歯科衛生士も、気づけば認知症患者の家で口腔ケアの後にご飯と味噌汁をよそって鍋を洗うようになった。
「口腔機能管理」は決して目的ではない。皆が「暮らしを守る」という共通のビジョンを見据えなければ、真の連携は成り立たない。こうした地域の強いつながり(=地域包括ケア)によって、たとえ認知症になっても望んだ暮らしが続けられるまちがつくられるのだ。
「最期まで人間らしく生きたいから、チューブでの栄養は絶対にしないでほしい。」
ある特養のミールラウンドで、アルツハイマー型認知症のMさんが尊厳死の宣言書を残していた。嚥下機能が低下しこれ以上経口摂取を続けるのは危険な状態であったが、多職種で何度も話し合い、最期まで口から食べてもらうことに決めた。
「しかし、本来予防できるはずの誤嚥性肺炎を自然死と捉えてよいのだろうか…?」
こうしたケースに出くわすたび、既存の常識に普段がんじがらめに捉われている我々の心はぐらぐら揺らぐ。本心では、生きたいように生きてほしいと願っているのに。
認知症で90代のKさんは、誤嚥性肺炎で入院し禁食を命じられた。しかし、家に帰ると妻も長女も「残り少ない人生、お父さんらしく生きてほしい」と強く望んだ。そこで看護師やリハ職、薬剤師や歯科がSNS上でタイムリーに連携して見守りながら、好きな時に柿の種やまんじゅうを食べ、セニアカーで近所を散歩するなど(ちなみに要介護5である)、自由気ままな家での暮らしを存分に満喫している。
これが医療職として正しい判断かどうかはわからない。しかし、医療の目的は決して管理することではない。ましてや家での暮らしに正解はない。皆で悩み果てた末に、本人の満足そうな笑みを見てハッと気づく。「そうだ、やっぱりこれでいいのだ!」
これからは、scienceを超えたartの視点が必要な時代なのかもしれない。