第16回日本クリティカルケア看護学会学術集会

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会長講演

[PL] クリティカルケア看護への眼差し:ベッドサイドケアとしての看護の営み

演者:林 優子(関西医科大学看護学部)

[PL] クリティカルケア看護への眼差し:ベッドサイドケアとしての看護の営み

○林 優子1 (1. 関西医科大学看護学部 )

Keywords:クリティカルケア看護、ベッドサイドケア

今や、世界はAI時代。音声、言語、画像認識などを含むAIは私たちの社会生活に参入し、日常生活の営みを効率の良い便利なものにしています。IoTやAI、ロボットといった技術革新の到来は、医療分野においても革命を引き起こそうとしています。私たち看護職も看護実践や看護教育の中に、どのようにAI技術を取り入れ、活用していくかを考えることが重要になるだろうと思います。
 一方、このような時代において、医療人類学者であるアーサー・クライマン氏は、医療・看護・福祉の現場から真のケアの提供がなくなりつつある、今まさに、情緒的で倫理的に対応できる人間性のあるケアの回復が求められていると警鐘を鳴らしています。人間性のあるケアとはどのようなケアなのでしょうか。私はそれを自らに問いかけながら、情緒的で倫理的に対応できる人間性のあるケアとは何か、より良いクリティカルケア看護とは何かを、鯨岡峻氏の関係発達論とアフアフ・メレイス氏の移行理論の視点から述べたいと思います。
 鯨岡氏は、関係発達論の出発点として①人は両義的欲求(自己充実欲求と繫合希求欲求)をもち、その充足を目指して正負の心を動かす存在である、②人は対人関係の中で時間軸にそって変容していく存在であるという2つを基盤に、人と人との関係性の中で行う営みは、双方に生まれる様々な心の動き(情動や気持ち)によって展開していくものであると述べています。人と人が関わり看護する営みには、「看護する-看護される」という関係があります。看護するは、看護師の目(看護師の立場を踏まえる)であり、看護されるは、患者の目(患者の身になる)をさしています。関係し合う看護師と患者は共に両義的欲求を持つ存在であり、主体性のある人間です。
 患者はベッド上で、痛み、死の脅威、不安、精神混乱、無力感などが渦巻く経験や、選択の余地の少ない過酷な治療に耐え、苦闘する経験をしています。患者には、「自分の苦痛やニーズを分かってもらいたい」との切実な思いがあり、その思いを看護師に向ける心の動きがあります。その思いが看護師に伝わり、その思いを受け止め、患者のニーズに応えようとする看護師の心の動きがあります。患者の思いを受け止める心の動き<温かく包む心の動き>と、患者の心の動きを看護師が間主観的にわかり、患者の回復に向けて看護する心の動き<患者のニーズに働きかける動き>、これが看護の営みなのです。この「看護する-看護される」という関係は、看護師の認識を随分と変えるものになります。例えば、相手の気持ちがわかるからこそ、痛みに配慮した身体ケアになるし、吸引や体位の工夫につながります。治療的介入も同じです。
 メレイス氏は、発達上の変化や健康から疾病への変化など、これらの変化は内部プロセスを引き起こし、その変化は人によって異なる経験であり、変化への反応には、医療専門家の注意が求められると述べています。救命救急や手術、ICUで治療を受けることは、患者にとって安定した状態から危機的状態への変化であり、その状況は移行の始まりとなります。看護師は、患者にどのように対応すればよいのか、患者の家族はどのような状態であるのかなど、患者・家族の移行プロセスへの看護を始めることになります。クリティカルケア看護はその看護の始まりといえましょう。
 私は、長い間、臓器移植患者や家族と関わってきました。生命の危機的状況から回復過程を辿り、well-beingへと移行する臓器移植者にとって、well-being に向かう原動力は、危機的状況での体験にあると実感しています。