[PD4-02] 1300年前、医療福祉政策は奈良から始まった
Keywords:命とは何か、命を救うこととは何か
1 奈良時代の医療福祉
神亀元年(724)2月、24歳で即位した聖武天皇は、医療体制についても神亀三年(726)6月、詔を出してひとつの方針を示した。
天皇は民にとって父母のような存在であると宣言した上で、医療と栄養補給を全国に指示している。こうした統治観念は、医療行政や高齢者・障害者の保護といった政策にも反映されている。
大宝律令制定前後から光明皇后による施薬院(病人に薬を施し、病を治療する施設)設置にかけての医療行政に係わる事例は『続日本紀』に多く記されている。
疫病の流行が起こると、当該地方の国司は中央政府に報告し、罹病者に対して医師(くすし)を派遣し、薬を与えて治療に当たらせた。
①もちろん、それまでも疫病や飢饉が起これば、その国々に医師を派遣したり食料を支給したことはあったが、救済措置を全国規模で講じようとしたのは聖武天皇が初めてである。
②おそらくこれまで以上に大量の薬物が必要になったはずで、光明皇后による施薬院の設置は、このような聖武天皇の意を体してのことだったのではないか。
それまでの医療体制は実態的には支配階級が対象だったと思われるから、光明皇后による取り組みは、庶民にも恩恵が及ぶ契機になった。
③施薬や食料支給の対象者は、高齢者・障害者・介護者にも及んでいる。
※この稿、GBS論集第九号『光明皇后ー奈良時代の福祉と文化』森本公誠論考参照
2 東大寺天平創建の意義
創建当初、聖武天皇が大仏造立を発願したとしても、その意義が国民に理解されたものでなければ、大仏造立は成し遂げられなかったであろうし、平安期や戦国期のいくさに巻き込まれて罹災した時も、国をあげての再建事業には結び付かなかったであろう。
①聖武天皇の真意
東大寺の本尊・盧舎那大仏を造顕された聖武天皇は「動物の植物も皆ともに栄えるように」と願われ、東大寺創建の精神の根拠となった『華厳経』の教え「この世の全てのいのちが関わり合って輝き、共に支え合う」という世界観は、現代に至るまで確実に受け継がれている。諸堂伽藍がいくさに巻き込まれ焼失した折にも、天平創建の精神《皆が共に支え合い、互いにそのいのちを輝かせること》に倣って、鎌倉期再建・江戸期再建が果され、明治以降は伽藍や尊像の大修理、平成時には最新防災設備事業の実施・法華堂須弥壇修理事業など、貴重な文化財の保全と維持管理の伝承に生かされている。
神亀元年(724)2月、24歳で即位した聖武天皇は、医療体制についても神亀三年(726)6月、詔を出してひとつの方針を示した。
天皇は民にとって父母のような存在であると宣言した上で、医療と栄養補給を全国に指示している。こうした統治観念は、医療行政や高齢者・障害者の保護といった政策にも反映されている。
大宝律令制定前後から光明皇后による施薬院(病人に薬を施し、病を治療する施設)設置にかけての医療行政に係わる事例は『続日本紀』に多く記されている。
疫病の流行が起こると、当該地方の国司は中央政府に報告し、罹病者に対して医師(くすし)を派遣し、薬を与えて治療に当たらせた。
①もちろん、それまでも疫病や飢饉が起これば、その国々に医師を派遣したり食料を支給したことはあったが、救済措置を全国規模で講じようとしたのは聖武天皇が初めてである。
②おそらくこれまで以上に大量の薬物が必要になったはずで、光明皇后による施薬院の設置は、このような聖武天皇の意を体してのことだったのではないか。
それまでの医療体制は実態的には支配階級が対象だったと思われるから、光明皇后による取り組みは、庶民にも恩恵が及ぶ契機になった。
③施薬や食料支給の対象者は、高齢者・障害者・介護者にも及んでいる。
※この稿、GBS論集第九号『光明皇后ー奈良時代の福祉と文化』森本公誠論考参照
2 東大寺天平創建の意義
創建当初、聖武天皇が大仏造立を発願したとしても、その意義が国民に理解されたものでなければ、大仏造立は成し遂げられなかったであろうし、平安期や戦国期のいくさに巻き込まれて罹災した時も、国をあげての再建事業には結び付かなかったであろう。
①聖武天皇の真意
東大寺の本尊・盧舎那大仏を造顕された聖武天皇は「動物の植物も皆ともに栄えるように」と願われ、東大寺創建の精神の根拠となった『華厳経』の教え「この世の全てのいのちが関わり合って輝き、共に支え合う」という世界観は、現代に至るまで確実に受け継がれている。諸堂伽藍がいくさに巻き込まれ焼失した折にも、天平創建の精神《皆が共に支え合い、互いにそのいのちを輝かせること》に倣って、鎌倉期再建・江戸期再建が果され、明治以降は伽藍や尊像の大修理、平成時には最新防災設備事業の実施・法華堂須弥壇修理事業など、貴重な文化財の保全と維持管理の伝承に生かされている。