[LS6-1] 医療安全の視界1999 - 2020ʼs
共催企業:東京海上日動火災保険株式会社
【抄録】
1999 年2 月4 日夜、私たちサーベイヤーは、訪問審査のあった名古屋の食事処で、TV 画面をしばし沈黙のまま凝視し続けた。前月中旬からニュースで騒がれていた「横浜市大病院患者取り違え事故」の全容をNHK が特集で報じていたのである。「手術部位の間違いは知っているけれど、患者の取り違え手術は聞いたことがない。おおごとになるかも・・」と経験の深いサーベイヤーが口を開いた。
我が国の医療安全の始まりの一風景である。ちなみに、同席された看護サーベイヤーは、畠中智代氏と勝原裕美子氏であった。爾後お二人とは様々な場面で議論させていただくことになった。
翌2000 年8 月、縁があって、横浜市立大学に医療安全の教員として着任した。「質研」の活動で旧知であった多くの大先輩から書状で想いを付託された。私の大学での役割は、大学病院の医療安全管理の確立と医学部学生への教育であった。さて、どう始めよう。
本講演では、医療安全のフロントランナーのひとりとして走らざるを得なかった立場で、「何をみて、どう考え、どう仕掛け、どう実践してきたか」の観点から、いくつかの話題をお話します。
聴衆の皆様のひとりひとりの医療安全への思いと同期できれば幸いです。
1999 年2 月4 日夜、私たちサーベイヤーは、訪問審査のあった名古屋の食事処で、TV 画面をしばし沈黙のまま凝視し続けた。前月中旬からニュースで騒がれていた「横浜市大病院患者取り違え事故」の全容をNHK が特集で報じていたのである。「手術部位の間違いは知っているけれど、患者の取り違え手術は聞いたことがない。おおごとになるかも・・」と経験の深いサーベイヤーが口を開いた。
我が国の医療安全の始まりの一風景である。ちなみに、同席された看護サーベイヤーは、畠中智代氏と勝原裕美子氏であった。爾後お二人とは様々な場面で議論させていただくことになった。
翌2000 年8 月、縁があって、横浜市立大学に医療安全の教員として着任した。「質研」の活動で旧知であった多くの大先輩から書状で想いを付託された。私の大学での役割は、大学病院の医療安全管理の確立と医学部学生への教育であった。さて、どう始めよう。
本講演では、医療安全のフロントランナーのひとりとして走らざるを得なかった立場で、「何をみて、どう考え、どう仕掛け、どう実践してきたか」の観点から、いくつかの話題をお話します。
聴衆の皆様のひとりひとりの医療安全への思いと同期できれば幸いです。