[F-2] 基調講演1 「はじまりの・あーと」その理論と実践
作業療法の作業は、仕事の意味でのオキュペイションであり、それはこの世界において、私の占める(オキュパイ)立ち位置、この世界における私の生きる所作を意味するものだ。「生きる所作」とは、私の考えるところの藝術であり、生きることそれ自体である。
藝術に関する著作『TANKURI: 創造性を撃つ』(水声社,2018)を共に著した日本画家、中村恭子氏は、正確無比のデッサン力と精緻な描画で、ポストモダン的テーマを掲げ、具象を描く。その中村氏が言うには、「郡司さんは技術を持たないので絵画や彫刻はできないが、その辺の紙を千切り、丸めてはテーブルに並べている。そういう、ひたすら並べるということをすれば、何かできるのではないか」ということだった。確かにそれは思い浮かぶものがある。教科書のページの縁は爪で擦られ、ささくれだち、喫茶店では無意識に、ストローの紙袋やナプキンを裂いて丸めては並べてしまう。それは、まるで虫の所業だが、自分にとっては何か本質的なものである気がした。
私は、『天然知能』(講談社メチエ, 2019)やその続編である『やってくる』(医学書院, 2020)において、徹底して受動的に外部を受け入れる態度、であり装置を、天然知能と呼び、その装置の構造を示した。それは、浦上大輔氏との共著『セルオートマトンによる知能シミュレーション:天然知能を実装する』において、二項対立的な肯定的アンチノミー(二項を共に成立させる)と否定的アンチノミー(二項を共に排除する)との共立という構造で、より具体的に構想された。「ひたすら」並べる、という作業において、二項とは何か、それは人であり、虫であった。つまり肯定的アンチノミーは、私が「人であり虫である」ように物を並べることで実装され、否定的アンチノミーは、私の作るものが「人でも虫でもない」ものの痕跡となる、ことで実現される。この二つのアンチノミーを心に留めながらする行為は、藝術に類する何か、私のオキュペイションとなるに違いない。それは映画監督山岡信貴氏のドキュメンタリー「アートなんかいらない!」における平仮名のあーとだ。私は、やはり二重のアンチノミーが成立する両親の亡くなった実家を制作の場所として、毎週実家に篭って制作を続けた。本講演は、それが作品となるまでの実践的軌跡とその理論の普遍性を示すものである。
藝術に関する著作『TANKURI: 創造性を撃つ』(水声社,2018)を共に著した日本画家、中村恭子氏は、正確無比のデッサン力と精緻な描画で、ポストモダン的テーマを掲げ、具象を描く。その中村氏が言うには、「郡司さんは技術を持たないので絵画や彫刻はできないが、その辺の紙を千切り、丸めてはテーブルに並べている。そういう、ひたすら並べるということをすれば、何かできるのではないか」ということだった。確かにそれは思い浮かぶものがある。教科書のページの縁は爪で擦られ、ささくれだち、喫茶店では無意識に、ストローの紙袋やナプキンを裂いて丸めては並べてしまう。それは、まるで虫の所業だが、自分にとっては何か本質的なものである気がした。
私は、『天然知能』(講談社メチエ, 2019)やその続編である『やってくる』(医学書院, 2020)において、徹底して受動的に外部を受け入れる態度、であり装置を、天然知能と呼び、その装置の構造を示した。それは、浦上大輔氏との共著『セルオートマトンによる知能シミュレーション:天然知能を実装する』において、二項対立的な肯定的アンチノミー(二項を共に成立させる)と否定的アンチノミー(二項を共に排除する)との共立という構造で、より具体的に構想された。「ひたすら」並べる、という作業において、二項とは何か、それは人であり、虫であった。つまり肯定的アンチノミーは、私が「人であり虫である」ように物を並べることで実装され、否定的アンチノミーは、私の作るものが「人でも虫でもない」ものの痕跡となる、ことで実現される。この二つのアンチノミーを心に留めながらする行為は、藝術に類する何か、私のオキュペイションとなるに違いない。それは映画監督山岡信貴氏のドキュメンタリー「アートなんかいらない!」における平仮名のあーとだ。私は、やはり二重のアンチノミーが成立する両親の亡くなった実家を制作の場所として、毎週実家に篭って制作を続けた。本講演は、それが作品となるまでの実践的軌跡とその理論の普遍性を示すものである。