18:15 〜 19:30
[HCG37-P01] 現・潮間帯堆積物と1703年・1923年関東地震で隆起した段丘堆積物の比較――微地形分類の重要性――
キーワード:関東地震, 古地震履歴, 沖積谷, 段丘堆積物, 干潟堆積物, 三浦半島
関東地震の震源域では,隆起海岸が発達しており、関東地震の履歴について研究がなされている。その研究の多くは、主として房総半島を対象としており、同じように重要な三浦半島では、関東地震の履歴と上下変動量の情報は1703年および1923年の2つの地震に限られている。古地震の発生履歴を解明するためには、堆積物を調べる必要がある。
三浦半島では更新世海成段丘を開析する沖積谷の中に、完新世の海成・河成の堆積層が分布し、その堆積面が隆起・陸化して形成された海成段丘が分布する。こうした堆積物を伴う段丘は、古地震の年代および上下変動量を解明する上で重要であると判断される。
本研究は、半島南部の毘沙門湾沿いの沖積谷の中に分布する段丘を分類し、ボーリング調査を行った。堆積物の分析から、段丘の形成過程を解読し、古地震との関係について検討する。段丘堆積物の堆積環境を理解するために、現世の干潟の側線上11地点で堆積物を2.5~5.4 kg採取し、粒度分析を実施した。現干潟と段丘の堆積物について、比較を行う。これらの結果、以下のことが明らかとなった。
1.1946年米軍撮影の縮尺4万分の1の空中写真の判読と1921年測量の縮尺1/25,000の地形図の読図より、海成段丘および河成段丘を詳細に分類した。平均潮位から海抜10 mまでの間に、海成段丘が7段分布している。ここでは、段丘面を低位より高位の順にL1面からL7面とよぶ。
2.段丘面は海岸線にほぼ平行に分布するほか、おぼれ谷状に内陸に入り込む形態を呈し、おぼれ谷を埋めた海成・河成の堆積面が陸化したものであり、また、その堆積面と連続する岩石海岸の侵食面からなると判読した。また1946年の海岸線は、現在の海岸線とほぼ同じ位置に分布しているが、1921年の地形図に描かれた海岸線は内陸側に最大約20 mほど前進している。これは1923年の関東地震の隆起によって、毘沙門湾奥の海底が陸化し、海が相対的に海退したものと判断する。以上のように、空中写真判読と地形図読図に基づくと、L1面は1923年の地震の隆起で陸化した段丘面である。なお1921年の地形図の海岸線の位置は、1946年の写真で判読されたL1面とL2面の境界線にほぼ一致している。
3.開発が進み、沖積谷の中は耕作土が埋められている。そこで、毘沙門湾の西奥に分布する沖積谷とその支谷で、深さ2~5 mのボーリング調査を9地点で実施した(4地点については、2ヶ月前に掘削したばかりである)。その結果、耕作土は厚さ1~2 mあり、その下からウミニナBatillaria multiformis、真牡蠣Crassostrea gigasどの貝化石を含む砂礫層や有機質の砂泥層が堆積している。こうした潮間帯の貝化石のほか、木片や貝殻片が含まれ、泥の量も多いことから、これらの貝片砂礫層・貝片砂泥層は毘沙門湾の入り江の湾奥に堆積した干潟の堆積物であると判断する。川の流出口付近とそこから180 m上流に分布するL1面および下流部の支谷で認められたL3面の調査地点では、干潟層の上に河成の砂礫層が堆積している。こうした段丘堆積物の層相は、現在の干潟の堆積物のそれにかなりよく相似している。
4.海成層の堆積面から、L1面はM.S.L.+0.8 m~1.3 m、L2面はM.S.L.+1.5 m~2.1 m、L3面はM.S.L.+3.7 mに分布する。これらの段丘面が地震性隆起によって生じたものであれば、段丘面の高度はおよそ関東地震の隆起量と地震間の沈降量の累積合算値を示す。陸地測量部(1926)の三等三角点の改測に基づくと、毘沙門湾の周辺の隆起量は約1.2~1.3 mであるため、標高2.1 mの段丘面が1923年の地震で段化・陸化したのではなく、1923年のひとつ前の地震で陸化した可能もある。またL1面およびL2面の堆積面の高度は、岩礁に付着するカンザシゴカイの化石の高度から推定された1923年と1703年の隆起量[西畑・他1988;宍倉・越後、2001]とも、ほぼ一致する。
5.毘沙門湾は沖積谷の河口に形成された入り江であり、同湾の湾奥には小さな河口干潟が形成され、干潟には沖積谷から(小川)が流れ込む。砂や礫は、小川から運搬されたと判断される。砂や泥は、潮汐に伴った海の流れによって、干潟の堆積面の上を往復し、堆積した。そのため、干潟の堆積物は、雑多な堆積物からなると判断される。大礫はM.S.L+0.8~-0.05に認められ、低潮線側では認められない。中礫(小)の量はM.S.L.-0.3~-0.4 mよりも低潮線側では急激に減少する。平均潮位線よりも低潮線側では、泥・中粒砂の細粒物の量が急激に増えていた。さらに、段丘堆積物との関係を検討していく。
三浦半島では更新世海成段丘を開析する沖積谷の中に、完新世の海成・河成の堆積層が分布し、その堆積面が隆起・陸化して形成された海成段丘が分布する。こうした堆積物を伴う段丘は、古地震の年代および上下変動量を解明する上で重要であると判断される。
本研究は、半島南部の毘沙門湾沿いの沖積谷の中に分布する段丘を分類し、ボーリング調査を行った。堆積物の分析から、段丘の形成過程を解読し、古地震との関係について検討する。段丘堆積物の堆積環境を理解するために、現世の干潟の側線上11地点で堆積物を2.5~5.4 kg採取し、粒度分析を実施した。現干潟と段丘の堆積物について、比較を行う。これらの結果、以下のことが明らかとなった。
1.1946年米軍撮影の縮尺4万分の1の空中写真の判読と1921年測量の縮尺1/25,000の地形図の読図より、海成段丘および河成段丘を詳細に分類した。平均潮位から海抜10 mまでの間に、海成段丘が7段分布している。ここでは、段丘面を低位より高位の順にL1面からL7面とよぶ。
2.段丘面は海岸線にほぼ平行に分布するほか、おぼれ谷状に内陸に入り込む形態を呈し、おぼれ谷を埋めた海成・河成の堆積面が陸化したものであり、また、その堆積面と連続する岩石海岸の侵食面からなると判読した。また1946年の海岸線は、現在の海岸線とほぼ同じ位置に分布しているが、1921年の地形図に描かれた海岸線は内陸側に最大約20 mほど前進している。これは1923年の関東地震の隆起によって、毘沙門湾奥の海底が陸化し、海が相対的に海退したものと判断する。以上のように、空中写真判読と地形図読図に基づくと、L1面は1923年の地震の隆起で陸化した段丘面である。なお1921年の地形図の海岸線の位置は、1946年の写真で判読されたL1面とL2面の境界線にほぼ一致している。
3.開発が進み、沖積谷の中は耕作土が埋められている。そこで、毘沙門湾の西奥に分布する沖積谷とその支谷で、深さ2~5 mのボーリング調査を9地点で実施した(4地点については、2ヶ月前に掘削したばかりである)。その結果、耕作土は厚さ1~2 mあり、その下からウミニナBatillaria multiformis、真牡蠣Crassostrea gigasどの貝化石を含む砂礫層や有機質の砂泥層が堆積している。こうした潮間帯の貝化石のほか、木片や貝殻片が含まれ、泥の量も多いことから、これらの貝片砂礫層・貝片砂泥層は毘沙門湾の入り江の湾奥に堆積した干潟の堆積物であると判断する。川の流出口付近とそこから180 m上流に分布するL1面および下流部の支谷で認められたL3面の調査地点では、干潟層の上に河成の砂礫層が堆積している。こうした段丘堆積物の層相は、現在の干潟の堆積物のそれにかなりよく相似している。
4.海成層の堆積面から、L1面はM.S.L.+0.8 m~1.3 m、L2面はM.S.L.+1.5 m~2.1 m、L3面はM.S.L.+3.7 mに分布する。これらの段丘面が地震性隆起によって生じたものであれば、段丘面の高度はおよそ関東地震の隆起量と地震間の沈降量の累積合算値を示す。陸地測量部(1926)の三等三角点の改測に基づくと、毘沙門湾の周辺の隆起量は約1.2~1.3 mであるため、標高2.1 mの段丘面が1923年の地震で段化・陸化したのではなく、1923年のひとつ前の地震で陸化した可能もある。またL1面およびL2面の堆積面の高度は、岩礁に付着するカンザシゴカイの化石の高度から推定された1923年と1703年の隆起量[西畑・他1988;宍倉・越後、2001]とも、ほぼ一致する。
5.毘沙門湾は沖積谷の河口に形成された入り江であり、同湾の湾奥には小さな河口干潟が形成され、干潟には沖積谷から(小川)が流れ込む。砂や礫は、小川から運搬されたと判断される。砂や泥は、潮汐に伴った海の流れによって、干潟の堆積面の上を往復し、堆積した。そのため、干潟の堆積物は、雑多な堆積物からなると判断される。大礫はM.S.L+0.8~-0.05に認められ、低潮線側では認められない。中礫(小)の量はM.S.L.-0.3~-0.4 mよりも低潮線側では急激に減少する。平均潮位線よりも低潮線側では、泥・中粒砂の細粒物の量が急激に増えていた。さらに、段丘堆積物との関係を検討していく。