日本地球惑星科学連合2014年大会

講演情報

口頭発表

セッション記号 H (地球人間圏科学) » H-DS 防災地球科学

[H-DS27_1AM2] 津波とその予測

2014年5月1日(木) 11:00 〜 12:45 418 (4F)

コンビーナ:*林 豊(気象研究所)、Mas Erick(International Research Institute of Disaster Science)、馬場 俊孝(海洋研究開発機構)、座長:馬場 俊孝(海洋研究開発機構)、稲津 大祐(防災科学技術研究所)

12:30 〜 12:45

[HDS27-13] 天保14年(1843)根室沖地震津波の浸水高分布

*都司 嘉宣1堀江 岳人2橋本 佳祐2佐々木 崇之2馬淵 幸雄3岡田 清宏3畔柳 陽介3大家 隆行3栗本 昌志3木南 孝博4今村 文彦5 (1.深田地質研究所、2.(株)アルファ水工コンサルタンツ、3.パシフィックコンサルタンツ(株)、4.頸城技研(株)、5.東北大学災害科学国際研究所)

キーワード:歴史地震, 歴史津波, 北海道, 根室, 釧路, 千島海溝

天保十四年三月二十六日(1843-Ⅳ-25)の午前6時頃に根室沖海域で生じた地震(M7.5)による津波は、釧路および根室海岸に大きな被害をもたらしたが、津波の記録は岩手県大船渡市綾里から北海道知床半島にまで及んでいる。この津波の史料は「増訂・大日本地震史料 第三巻」(武者編、1941、以下M3と記す)、「新収日本地震史料 第四巻」(地震研究所、1984、S4と略す)に掲載されている。釧路地方では、蝦夷三官寺の一つである厚岸の国泰寺の『日鑑記』(M3-p448、S4-p805)が、国泰寺に隣接する出張会所やアイヌの板物置が流され浸水で海のようになったこと、厚岸の向岸で番屋やアイヌの住居が1軒も残らず流され、34人の死者が出たこと、ポロト(現浜中町)でアイヌが11人死亡したことを伝えている。クスリ(釧路)場所の役人が松前藩へ出した報告書の控である『御用諸書物留』(S4-p803)には、「釧路会所の36km東のセンホウシとそれに隣接するベツフトで小屋1軒、草蔵1軒が流失した。アトエカ(跡永賀)でアイヌの住居2軒が流失した」と記されている。根室地方では、明治期に作成された『根室一等測候所報告』(M3-p449)に天保2年(1831)ホロモシリ村生の山本小七の証言が載せられている。それによると、当時野付にいた小七は、津波は野付沖で大小二波に分かれ、大波は目梨(知床半島)に向かい、小波が野付に来たという。知床半島では、現在の羅臼と植別がこの当時の目梨郡の主要集落であった。なおM3-p425には、天保7年7月25日の項に誤置されたこの津波の根室市花咲の記事(『根室一等測候所報告』)があり、「天保六未ノ年八月、海嘯あり。各所の漁舎を流し、花咲尤も強く、同所に居住する蝦夷人小屋五十余戸、漁舎倉庫共悉く流失し、為に蝦夷人をして山超えせしめ、現今の「ホニヲイ」に転住せし由なり」と、年代を誤って花咲の津波遭難とその後のホニヲイへの集団移転が記されている。三陸海岸では八戸、宮古湾の鍬ケ崎と赤前、および大船渡市綾里(M3では天保6年6月25日の項に誤置されている、p417)に記録がある。これらの記録の基づき、釧路地方、根室地方、および三陸海岸の各現地で調査・測量を行った結果、図を得た。本研究は(独)原子力安全基盤機構からの委託業務「平成25年度津波痕跡データベースの高度化-確率論的津波ハザード評価に係る痕跡記録の調査、および波源モデルのデータベース化-」(代表:東北大学 今村文彦)として行ったものである。