18:15 〜 19:30
[HGM22-P02] 航空レーザDEMによる九十九里平野の浜提列群の発達過程
キーワード:九十九里平野, 浜提列, 航空レーザDEM
はじめに
長大な浜提列が発達する九十九里平野の地形発達史や発達過程については,森脇(1979)や増田ほか(2001)において,詳しく述べられている.近年航空レーザ測量による詳細なDEMデータが整備され,九十九里平野においても,このDEMデータを利用することが可能となった.そこでこのデータで平野の微地形を分析し,従来述べられていなかった浜提列群の発達過程,特に南北の差違について考察を行った.
等時間線としての浜提列
1m間隔での標高段彩図では,浜提列の繋がりを良く追うことができ,この浜提列の繋がりは等時間線と捉えることができる.森脇(1975)は,この浜堤を内陸から海岸まで,第Ⅰ砂提群(SⅠ),第2砂提群(SⅡ),第3砂提群(SⅢ)と3区分したが,本稿でもそれを踏襲しそれぞれS1,S2,S3と区分する.また増田ほか(2001)は片貝海岸から東金にかけて海岸線に直行する縦断面で連続ボーリングを行い,試料の14C年代から等時間線を引いた.これらからそれぞれの浜提列群の年代は,S1が約6-4Ka,S2は約4-2Ka,S3は約1.5Kaから現在に形成されたことになる.
南北で異なる浜提列群
浜提列群の発達を標高段彩図で見ると北東部でS2が良く発達し,南部の茂原低地の14C年代は7-5Kaを示しS1が発達する.一方南部ではS2は貧弱である.つまり南部の方がS1が発達し早く離水したことになる.この原因は南部が隆起していること,また茂原付近では基盤となる上総層群の波食棚が広く発達していることによると思われる.
沿岸漂砂の供給と浜提列
標高段彩図では,浜提を形成した沿岸漂砂の供給方向も推測することが出来る.方向は浜提間低地を流れる河道の方向から河口偏倚を推測する.また浜堤がより古い浜堤に「アバット」する様相や南北の沿岸漂砂の会合点(宇多ほか,2000)で,南北の浜堤の位置に食い違いが生じることでも推測が可能である.
S1は北東部では,谷の出口に台地・丘陵の両側から浜堤が伸びており,高海面時の砂嘴が起源と考えられる.南部(埴生川)では河谷内部に浜堤が形成され,浜堤の位置が内陸に寄っている.
S2は河道の南への偏倚や浜堤が南側に「アバット」する様子が見られ,南部の南白亀川が南北の沿岸漂砂の会合点で,S2の大半が北からの沿岸漂砂であることが推測できる.
S3は大網白里市堀川付近で南北の河口偏倚が見られないので,南北の沿岸漂砂の会合点と思われる.
以上からS1は,縄文海進海進期・最盛期に丘陵や台地を侵食した砂が起源と考えられる.S2は大半が北東の屏風ヶ浦が起源と考えられ,北東部でS2の発達が良いのはそのためである.南部でS2の発達が貧弱なのは,南からの漂砂の供給源(星上ほか,2006)である夷隅川の河口がまだ埋積されていなかったため,供給が少なかったと考えられる.そしてS3になって初めて南北の沿岸漂砂のバランスがとれるようになったと言える.
九十九里平野の地殻変動
標高段彩図によればS1の標高は10m,中部では7mと下がり,北東部では9mと再び標高が上がる,S2は南部が4.5mなのに対し,北東部の方が7mと高い.S3は南部で1.5m,北東部では3mである.低地背後の下総台地木下層のMIS5e面の標高で見ると,南部で標高は100mを越え,中部の栗山川沿いで35mと一旦低くなるが,北東部で65mと再び高くなることから,台地のMIS5e面と同様な地殻変動が九十九里平野にも反映していると考えられる.これは北東部の鹿島隆起帯と南部の房総隆起帯の二つの構造運動が影響しており,それぞれの構造運動の活動時期が異なるためであろう.
【引用文献】 星上幸良ほか 2006, 海洋開発論文集 22: 403-408. 増田富士雄ほか 2001, 第四紀研究 40: 223-233. 森脇 広 1979, 第四紀研究 18: 1-16. 宇多高明ほか 2000, 海岸工学論文集 47: 686 -690.
長大な浜提列が発達する九十九里平野の地形発達史や発達過程については,森脇(1979)や増田ほか(2001)において,詳しく述べられている.近年航空レーザ測量による詳細なDEMデータが整備され,九十九里平野においても,このDEMデータを利用することが可能となった.そこでこのデータで平野の微地形を分析し,従来述べられていなかった浜提列群の発達過程,特に南北の差違について考察を行った.
等時間線としての浜提列
1m間隔での標高段彩図では,浜提列の繋がりを良く追うことができ,この浜提列の繋がりは等時間線と捉えることができる.森脇(1975)は,この浜堤を内陸から海岸まで,第Ⅰ砂提群(SⅠ),第2砂提群(SⅡ),第3砂提群(SⅢ)と3区分したが,本稿でもそれを踏襲しそれぞれS1,S2,S3と区分する.また増田ほか(2001)は片貝海岸から東金にかけて海岸線に直行する縦断面で連続ボーリングを行い,試料の14C年代から等時間線を引いた.これらからそれぞれの浜提列群の年代は,S1が約6-4Ka,S2は約4-2Ka,S3は約1.5Kaから現在に形成されたことになる.
南北で異なる浜提列群
浜提列群の発達を標高段彩図で見ると北東部でS2が良く発達し,南部の茂原低地の14C年代は7-5Kaを示しS1が発達する.一方南部ではS2は貧弱である.つまり南部の方がS1が発達し早く離水したことになる.この原因は南部が隆起していること,また茂原付近では基盤となる上総層群の波食棚が広く発達していることによると思われる.
沿岸漂砂の供給と浜提列
標高段彩図では,浜提を形成した沿岸漂砂の供給方向も推測することが出来る.方向は浜提間低地を流れる河道の方向から河口偏倚を推測する.また浜堤がより古い浜堤に「アバット」する様相や南北の沿岸漂砂の会合点(宇多ほか,2000)で,南北の浜堤の位置に食い違いが生じることでも推測が可能である.
S1は北東部では,谷の出口に台地・丘陵の両側から浜堤が伸びており,高海面時の砂嘴が起源と考えられる.南部(埴生川)では河谷内部に浜堤が形成され,浜堤の位置が内陸に寄っている.
S2は河道の南への偏倚や浜堤が南側に「アバット」する様子が見られ,南部の南白亀川が南北の沿岸漂砂の会合点で,S2の大半が北からの沿岸漂砂であることが推測できる.
S3は大網白里市堀川付近で南北の河口偏倚が見られないので,南北の沿岸漂砂の会合点と思われる.
以上からS1は,縄文海進海進期・最盛期に丘陵や台地を侵食した砂が起源と考えられる.S2は大半が北東の屏風ヶ浦が起源と考えられ,北東部でS2の発達が良いのはそのためである.南部でS2の発達が貧弱なのは,南からの漂砂の供給源(星上ほか,2006)である夷隅川の河口がまだ埋積されていなかったため,供給が少なかったと考えられる.そしてS3になって初めて南北の沿岸漂砂のバランスがとれるようになったと言える.
九十九里平野の地殻変動
標高段彩図によればS1の標高は10m,中部では7mと下がり,北東部では9mと再び標高が上がる,S2は南部が4.5mなのに対し,北東部の方が7mと高い.S3は南部で1.5m,北東部では3mである.低地背後の下総台地木下層のMIS5e面の標高で見ると,南部で標高は100mを越え,中部の栗山川沿いで35mと一旦低くなるが,北東部で65mと再び高くなることから,台地のMIS5e面と同様な地殻変動が九十九里平野にも反映していると考えられる.これは北東部の鹿島隆起帯と南部の房総隆起帯の二つの構造運動が影響しており,それぞれの構造運動の活動時期が異なるためであろう.
【引用文献】 星上幸良ほか 2006, 海洋開発論文集 22: 403-408. 増田富士雄ほか 2001, 第四紀研究 40: 223-233. 森脇 広 1979, 第四紀研究 18: 1-16. 宇多高明ほか 2000, 海岸工学論文集 47: 686 -690.