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[MAG39-06] 1703年元禄関東地震における東京湾内の津波被害
キーワード:1703年元禄関東地震, 歴史地震, 津波
元禄関東地震は,元禄十六年十一月二十三日 (1703年12月31日)に相模トラフ沿いで発生した巨大地震である[宇佐美ほか(2013,日本被害地震総覧)].外房地域における元禄地震の津波に関しては,羽鳥(1975,1976,地震研彙報)や古山(1982,1983,1987,私家版)など,津波犠牲者の供養碑や寺院の過去帳などを調査した研究があるほか,都司(2003,歴史地震)は集落別の流失家屋数を明らかにしている.東京湾内の津波に関して羽鳥(2006,歴史地震)は,東京湾内の津波の高さは船橋で2mと報告している.この値は,東京湾内における津波の最大高さとして,被害想定などでも利用されているが,その具体的根拠や研究に使用した史料名が明らかにされていない.一方,『1703元禄地震報告書』(内閣府,2013)は,東京湾内の千葉県側海岸では津波の被害が全くなかった,と結論づけており,東京湾内における津波被害について再検討する必要がある.そこで既刊の地震史料集にある史料以外に津波の被害を記した史料がないか調査を行い,以下のような結果が得られた.江戸市中へ元禄十七年(1704)四月に出された町触(三八四四)の史料中に「同夜八時過つなみ有之、内川一はいさし引四度有之」(『江戸町触集成 第二巻』)とある.内川(隅田川)がいっぱいになるほど波が来ており,4度ほど波の満ち引きがあったという.『鸚鵡籠中記』(『新収日本地震史料 第二巻別巻』)には「永代橋津浪打潮七度進退す。翌廿三日諸海潮十二度満。」とあり波の満ち引きがあったことがわかる.『災変温古録』(『新収日本地震史料 第二巻別巻』)には,深川で津波から逃れようと茶船へ移動したところ,波が乗り上げ川へ転落してしまったことが書かれている.千葉県側の記録では船橋市域での津波被害の記録がある.元禄地震の41年後に書かれた「佃島猟師入漁一件並びに御菜魚献納復活に付願書」(『船橋市史 史料編十』)には, 「四十一年以前未年大地震ニ而舟あミ 諸道具等被押流、其上瀬ふた通リ之藻草生不申寄魚無数御上肴不足仕旁以困窮仕候」とあり,漁船や網などの道具が津波で流され藻草が生えなくなり,魚が来なくなってしまい献上する魚が不足してしまっている. 「塩浜由来書」(『市川市史 第六巻上』)には「一元禄十六未年十一月廿三日夜大地震平岡三郎右衛門様御支配之節ニ而地形ゆり下ヶ塩浜海面塩除堤保チ不申荒浜致出来候」とある.元禄地震により土地が下がり,潮除けの堤防が壊れ塩浜が荒れてしまったことが書かれている.同史料には津波の記載はないが,元禄地震よりも前の延宝八年閏八月六日(1680年9月28日)に起きた,高潮の被害が書かれている.欠真間村内の地域では55人が流死したり,家財道具なども流失したりしたとある.延宝の高潮の被害は詳細に書かれているが,元禄津波の被害は記されていないことから津波の高さは23年前の高潮よりは低かったと推測される.史料の調査から,東京湾奥地域にも津波が来ており被害があったことが明らかになった.今後、史料調査を進め東京湾内での津波被害の復元を行っていく. 謝辞本研究は文部科学省受託研究「都市の脆弱性が引き起こす激甚災害の軽減化プロジェクト」の一環として実施された.