15:00 〜 15:15
[MZZ45-04] ドイツにおける鉱山・鉱物・地質学の歴史を文学作品にみる ー科学と思想の隙間ー
古代ギリシアから中世まで、鉱物が有機体であるか無機物であるかという議論が絶えず行われてきた。タレスやピュタゴラス学派は石が霊魂を有すると考え、初期プラトンやアリストテレスは鉱物に神的、霊的な性質を見て取った。ローマの自然観では、鉱山はしばらく放置しておくと生産性が上がると考えられた。中世になると、鉱物と魔術の関係が論じられるようになり、石には霊性が、宝石には魔力が備わるとされた。その考え方は錬金術師らに受け継がれ、鉱物、宝石の知識は魔術にとって不可欠なものとなった。このような石が持つ超自然的な力についてのアイデアは、文学作品の中に散見される。特に18、19世紀のドイツ文学ではその傾向が顕著である。当時の作家の多くは鉱山研究をするか、もしくはそれに関わる職に就いており、鉱物や鉱山のモチーフを物語に取り入れた。彼らの作品の中では常に鉱物が神秘的役割を持つ。この傾向は18、19世紀に留まらず、20世紀の作家にまで及んでいる。それを受けてドイツでは鉱山が魂の象徴となった。しかし、このように鉱物に神秘性をもたらした石の霊魂含有説は、13世紀にはアルベルトゥス・マグヌスによって否定され、その後、16世紀にはアグリコラによって具体的な採鉱冶金技術が記され、17世紀にはライプニッツによって聖書に準拠しない至極、機械的(現実的)な地球生成論が記されている。ライプニッツの哲学は生気論の部類に入れられ、ロマン主義の文学者たちに莫大な影響を与えたにもかかわらず。哲学書や文学作品には聖書の思想や古代の幻想が20世紀ごろまで残っているのに対し、地質学や地球生成論を真面目に論じるとなると、時代が中世であっても機械論的になるという傾向が見受けられる。それが、個人の思想家の中でも、思想と現実の大きなずれとして現れているように思われる。本発表では、鉱山を作品に用いた文学者(ゲーテやロマン主義作家)や哲学者(ライプニッツ)の作品と現実の活動を紹介しつつ、地球をありのままに観察した“現実”と彼らが理想とする形而上学的思想との間にある隙間を考察する。