日本地球惑星科学連合2014年大会

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口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-ZZ その他

[M-ZZ45_29PM1] 地球科学の科学史・科学哲学・科学技術社会論

2014年4月29日(火) 14:15 〜 16:00 422 (4F)

コンビーナ:*矢島 道子(東京医科歯科大学教養部)、青木 滋之(会津大学文化研究センター)、山田 俊弘(千葉県立船橋高等学校)、吉田 茂生(九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門)、座長:矢島 道子(東京医科歯科大学教養部)、山田 俊弘(千葉県立船橋高等学校)

15:15 〜 15:30

[MZZ45-05] 日本と中国の地理学史における王謨の役割

*柴田 陽一1 (1.京都大学人文科学研究所)

キーワード:地理学の制度化, 地理学思想の伝播, 中国人日本留学生, 地理学史

16人のシニア地理学者へのインタビュー集である『地理学を学ぶ』に,1942年にある中国人の来日に合わせて集まった東京帝国大学理学部地理学科の卒業生たちの写真が収められている。中国人の名は王謨(字は献芻),同学科を卒業した初めての中国人であった。 日本の地理学は,他分野と比べて高等教育機関における制度化が遅かった。初めての地理学講座は,明治末期の1907年に京都帝国大学文科大学史学科に設置された(初代教授は小川琢治,1911年に第1回卒業生を輩出)。つづいて,1911年に東京帝国大学理科大学地質学科に地理学講座(初代教授は山崎直方)が置かれたものの,あくまで地質学の一部にすぎず講座として卒業生を輩出することはなかった。ところが,第一次世界大戦後の1919年になると,「地理学は世界の大勢を明らかにし,その応用分野が少なくない」などの理由から,上述の地理学科が新設されることになったのである(1921年に第1回卒業生を輩出)。学協会の設立をみると,京都の地球学団が1924年,東京の日本地理学会が1925年に創設され,それぞれ雑誌『地球』・『地理学評論』を刊行し始めた。 以上のことから,日本の地理学が制度化されたのは1920年代前半であり,王謨はちょうどこの時期に日本で学び,その知識を中国に持ち帰った人物と位置づけることができる。そこで本報告では,彼の生涯をたどることを通じて,日本と中国における地理学の交流の一端について考えてみる。 王謨は1895年に四川省儀隴県に生まれた。来日時期は定かではないが,1915年には東京高等師範学校に入学したと考えられる。同校理科で地質学・鉱物学を専攻した後,1919年から東京帝国大学で地理学を学んだ(1922年卒業)。帰国後は,武昌師範学校地学系の初代教授に就任(同校は北伐により1926年閉鎖)。1928年には北平師範大学地理系を設立し,主任となった。これは,1921年に南京に設立された東南大学地学系(主任は竺可楨,後に中央大学地理系)に次ぐ,中国で二番目の大学地理系であった。また,1909年に張相文らによって設立された中国地学会(1910年に『地学雑誌』を創刊するも1924年に停刊)の復興に尽力した。北伐軍が北京を占領した直後の1928年9月,王謨は地質調査所の翁文?(後に中国地理学会初代会長)・章鴻釗(東京帝国大学地質学科を1911年卒業)らと共に同誌を復刊している。こうした経歴からみて,王謨が当時の中国地理学界において重要な位置にあったことはうなずけよう。 ところが,王謨の研究業績はそれほど秀でたものであったようには思えない(報告者の調査不足のせいかもしれないが)。故郷の四川や新疆・チベットに関するいくつかの論文,松山基範(京都帝国大学地質学鉱物学教室教授)の『地球』(地人書館の地理学講座)の翻訳,教科書『初中外国地理教科書』・『復興高級中学教科書自然地理』が目を引く程度である。例えば,彼と同年に東京帝国大学地質学科を卒業し,地理学・地質学関連の数多くの著書・翻訳書を著した張資平と比べた時,彼の業績は見劣りがするといわざるを得ない。彼はむしろ,日中文化交流および教育の分野で活躍していくことになる。 1937年の日中戦争開始に伴い,北京在住の中国知識人の多くは,西南へと逃れる道を選択した。しかし,王謨は日本が樹立した傀儡政権である中華民国臨時政府(後の華北政務委員会)下の北京にとどまることを決める。この決断は政治的な意味合いをもつものであった。彼は外務省文化事業部と臨時政府の協力の下に1938年に誕生した東亜文化協議会の中国側委員となり,何度か来日するなど積極的に活動した。また,同年成立した中華民国教育総会でも常務委員を務め,同会の機関紙上で地理教育の改革や,精神訓練や思想的統一などの重要性を訴えた。さらに,華北政務委員会では,1943年11月から教育総署督弁(文部科学大臣に相当,周作人も同職に就任)兼常務委員を務めた。冒頭で触れた写真は,こうした文化活動の一貫として来日した際に撮られたものであろう。また彼は日本地理学会創設時の同人の一人であり,日本の地理学者も彼の元を何度も訪問して交流を深めている。だが,こうした活動の結果として,日本敗戦後に王謨は漢奸として逮捕されることになった(その後消息不明)。 以上みてきたように,王謨が日本と中国における地理学の交流に果たした役割は,地理学書の翻訳を通じたものであったとはいえない。彼の役割はむしろ,中国の大学に地理系を設立して学生を教育したり,帰国後も日本の地理学者とのフェイス・トゥ・フェイスの交流を続けたことにある。そのため彼の営為を学説史上に位置づけるのは難しく,ほとんど忘れられた存在となっている。だが,当時の中国地理学界の多様性,そして現在の国家の枠組みにとらわれない東アジアの地理学史を描く上では,銘記されてしかるべき人物ではないだろうか。