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[MZZ45-10] 災害に抗する科学 1960-1993――自然災害科学は災害を克服できたか?
キーワード:自然災害科学, 現代地球科学史, 軍民転換, 学際領域, 長谷川万吉, 松澤 勲
日本の地球科学の歴史には自然災害が色濃く反映されている.災害を予想し未然に防ぎ,あるいは軽減するために,研究を積み重ね知識を蓄積してきたという一面をもっている.だがそうした自己了解の一方,そもそも災害を科学するとはどういうことなのか,実際に災害を防ぐ科学技術体系とは何なのか,災害を防ぐ最適な方法を評価する手段はあるのか,といった基本的な問題に関する議論は弱いようにみえる.本稿は,戦後,地球科学者が主唱してつくられた「自然災害科学」という領域の成り立ちをたどることによって,これらの問題を考える機会にするとともに,この領域のもつ現代地球科学史にとっての意味を考察する. 敗戦直後の地球科学にとって実際上の大きな課題は,資源の問題であったが,ほどなくして自然災害対策が浮上してくる.大きなきっかけとなったのは1959年9月の伊勢湾台風による被害であった.戦後復興後の国民生活と経済を災害から守ることは政治的社会的な課題となり,災害対策基本法の制定をみた(1961年).この機をとらえ,全国の大学研究者を糾合して自然災害の総合的研究を呼びかけたのが,福井大学の学長であった地球物理学者の 長谷川万吉(1894-1970)であった(災害科学総合研究班, 1977). 長谷川は災害研究の必要を1959年秋の国立大学協会の場で訴え,翌年には80万円の文部省科学研究費を得て「災害科学総合研究班」という研究連絡組織を発足させる.当初の研究分担者は30名ほどであったが,63年に特定研究のなかに領域が設定されるにおよんで,65年までの3年間に120件の研究が行われる規模になった.この特定研究は三期9年間を経るあいだに,研究分担者は800名を数え,研究費総額は1億円を超えるようになる(1971年度).さらに72年からはガン研究と同等の扱いの特別研究として遂行されるようになった(自然災害科学総合研究班, 1972). 自然災害科学研究の目標は「自然災害を軽減あるいは防止して生活の向上,福祉の増進に貢献するための学術的基礎を与えること」とされ(自然災害科学総合研究班, 1972: 71),研究組織は,気象,河川,海洋,地震,火山,雪氷,農林など10ないし11の専門部会と,北海道,東北,関東,中部,関西,西部の6つの地区に分けられ,それぞれに責任者が置かれた.こうした整然とした組織づくりと運営をひきうけたのが,のちに「災害科学のドン」と呼ばれるようになる名古屋大学の地質学者 松澤 勲(1906-1990)であった.松澤は戦中大陸の資源探査に携わり,戦後は新設された名古屋大学地球科学科の構造地質学の教授となっていた. この1960年代から始まった自然災害科学研究の流れは,戦後地球科学史研究のうえで次の3つの観点から注目される. 第一に,地球科学分野における軍民転換論における意味である.水谷(MS, 2013)の示唆するところによると,当時長谷川は研究費の確保に心を砕いており,地球科学者の社会的貢献と研究資金の獲得のために,公衆にアピールする災害対策に思いを致したと推定される.そうであるとすれば,広重(1973/2003)や松本(1998/2012)の指摘する戦中から戦後にかけての軍民転換のこの分野における例として,その問題点を含めて検討の価値がある. 第二に,地球科学の諸専門分野が連携する基盤としての意味である.特に2大ディシプリンともいえる地質学と地球物理学間には,教育・研究上越えがたい溝が存在したが,1990年代に地球惑星科学として統合されていくにあたって,プレートテクトニクスのような理論的発展とは別に,災害科学領域という活動の場が分野の形成に資するところがあったのではないか. 第三に,人文社会科学分野との関係を開拓した意味である.当初,理工農の研究者主体で始まったプロジェクトであるが,問題の性質上「災害の自然科学的研究のみならず広く社会文化的研究や公害に対する研究などとともに幅広い研究体制」を確立する必要があった(自然災害科学総合研究班, 1972: 3).この趣旨は1980年代に向け,防災教育や社会学的な見地を包含する方向に発展していくことになる(自然災害科学総合研究班, 1989: 88-95).