日本地球惑星科学連合2014年大会

講演情報

口頭発表

セッション記号 S (固体地球科学) » S-SS 地震学

[S-SS34_29AM1] 活断層と古地震

2014年4月29日(火) 09:00 〜 10:48 502 (5F)

コンビーナ:*吾妻 崇(独立行政法人産業技術総合研究所)、杉戸 信彦(法政大学人間環境学部)、藤内 智士(高知大学理学部応用理学科)、吉岡 敏和(独立行政法人産業技術総合研究所活断層・地震研究センター)、座長:小松原 琢(独立行政法人産業技術総合研究所)、杉戸 信彦(法政大学人間環境学部)

09:00 〜 09:15

[SSS34-01] 安政三年七月二三日(1856-Ⅷ-23)北三陸沖地震の津波浸水高分布

*都司 嘉宣1馬淵 幸雄2岡田 清宏2畔柳 陽介2大家 隆行2栗本 昌志2木南 孝博3堀江 岳人4橋本 佳祐4佐々木 崇之4岩渕 洋子5今井 健太郎6今村 文彦6 (1.深田地質研究所、2.パシフィックコンサルタンツ(株)、3.頸城技研(株)、4.(株)アルファ水工コンサルタンツ、5.原子力安全基盤機構、6.東北大学災害科学国際研究所)

キーワード:歴史地震, 歴史津波, 三陸, 北海道, 日本海溝

安政三年七月二三日(1856-Ⅷ-23)の正午頃、三陸地方北部東方沖海域で発生した安政北三陸地震の震源は、延宝五年(1677),および、1968年の十勝沖地震(1968)とほぼ同じ位置であったと見られる。これら3個の地震は日本海溝と千島海溝の会合点にあたるこの付近で起きる固有のプレート境界型地震であると理解することができる。安政北三陸地震による津波は、三陸海岸および北海道で記録されている。この津波による死者数は全体で38人にすぎなかった。この数字は他の自然災害、たとえば同年8月25日の日本列島を縦貫した台風による約3万人の死者数に比べて非常に少ない死者数である。その40年後に起きた明治三陸津波の際、ほとんど教訓とされなかったのは、安政北三陸津波の死者が少なかったためであろう。以下、古文献が掲載されている地震史料集のうち武者(1951)をM4,「新収日本地震史料 第5巻」をS5、と略記する。この津波の最北の記録は、厚岸の国泰寺の『日鑑記』(S5-p246)で、厚岸会所付近で津波があって、人々が騒いだとされ、この付近で浸水高2.0mと推定される。日高地方の日高町門別にあった沙流会所付近については「沙流会所前は高潮強」の記載がある(『時風録』、M4-p667)。沙流会所は現在の門別稲荷石段の最下端付近にあった。この付近での地盤高11.2mまで浸水したと推定される。室蘭では『時風録』(M4-p667)に「エトモ辺も余程高潮入」の記載から5.6mと推定される。モロラン会所付近で流死者があり4.8mとする。函館半島の太平洋側海岸から遡上浸水した海水は、津軽陣屋(現・千代台公園)に達し(『見聞随筆 17』、S5-p243)、8.6mと測定された。同半島の西側の函館港の市街地の地蔵町、枡形、および沖ノ口番所などで、2.6~3.9m程度であった。青森県では、三沢市の三川目(みつかわめ)で3.5mであった。八戸市には、南部藩八戸支藩の記録『内史略』(S5-p188)、豪商大岡長兵衛の『多志南草』(S5-p232)など、信頼性の高い一次史料が豊富である。中心市街地の新湊で6.9m、白銀で7.1m、鮫で7.3mという高い値を得た。現在の八戸市北部の一川目では、「田中庄吉の家屋に浸水」(『一川目郷土史』)の記載から浸水標高7.3mを得た。岩手県久慈市久喜では、市街地内海岸沿いの畑に浸水した記録から5.2mとなった。宮古湾は典型的なV字湾であるが、その奥部の金浜で5.7mであった。山田町以南については都司ら(1995)の結果を参照して、津波浸水高分布図を得る。本研究は原子力安全基盤機構からの委託業務「平成25年度津波痕跡データベースの高度化-確率論的津波ハザード評価に係る痕跡記録の調査および波源モデルのデータベース化-」(代表:東北大学 今村文彦)の一部として実施した。