18:15 〜 19:30
[SSS34-P12] 新潟-長野県境部、信濃川流域におけるテクトニクスの検討
キーワード:十日町断層帯西部, 宮野原断層, 長野県北部地震, 信濃川流域
新潟-長野県において一般的な構造のトレンドは,いわゆる新潟方向と呼ばれる,NNE-SSW走向である.また,活断層のトレンドも同様に新潟方向をであると考えられている.しかし十日町市内から新潟-長野県境部まで連続する十日町断層帯西部は,南限に,ENE-WSW走向である宮野原断層を含むとしており(地震調査研究推進本部地震調査委員会2010),活断層のトレンドは新潟方向とは斜交している.
また,十日町市内より津南町まで連続する信濃川向斜も,十日町市内では新潟方向を持つが,津南町において屈曲し,E-W走向になって長野県栄村まで連続していると示唆されている(島津・立石1993,竹内ほか2000)が,正確な位置は特定されていない.
したがって,新潟-長野県境部における,地質調査を構造学的観点からより詳細に行うことで,本地域のテクトニクスを解明し,本地域に支配的なトレンドがE-W方向か,新潟方向であるかを確かめ,向斜構造や活断層の姿勢を議論する目的で,研究を行った.さらに,本地域に存在する小断層の解析を行うことで,古応力の変遷を求めた.
調査の結果,北東に存在する信濃川向斜は,津南町において屈曲し,本地域まで連続するが,宮野原で殲滅することが分かった.また,以西の地域においては信濃川向斜と同じくE-W走向を持つ,千曲川向斜を新たに認定した.本地域の地層は,概ね,この二本のE-W走向を持つ向斜構造によって規定されている.この二本の褶曲構造は軸の位置がずれていることとプランジ方向の違いから連続しないと考えた.
また,十日町市内において十日町断層帯西部と褶曲構造の姿勢を求めた瀬賀(2012MS)の断面図と,本研究における宮野原断層を跨ぐ断面図を比較すると,断層の直上において緩傾斜,急傾斜,緩傾斜と続く撓曲を形成することで両者の褶曲の形態は一致している.したがって,両断層は同じ姿勢であると考えられる.よって,この両者は一連の断層帯であり,十日町断層帯西部を構成していることは,地質調査からも明らかになった.また,十日町断層帯西部は宮野原断層を南限とすると考えられているが,さらに西方の,平滝周辺にも同様の姿勢の撓曲が観察されるため,十日町断層帯西部の南端はさらに西に延長される可能性がある.
さらに本地域の小断層の解析より,本地域はσ1をNW,σ3をSWとする横ずれ断層型応力にたびたび置かれてきたことが明らかになった.
この応力は,本地域で2011年,3月12日に起こった長野県北部地震の余震の発震機構と整合的であり,東北地方太平洋沖地震後の現在と同様の応力化にあったことを反映していると考えられる.
また,十日町市内より津南町まで連続する信濃川向斜も,十日町市内では新潟方向を持つが,津南町において屈曲し,E-W走向になって長野県栄村まで連続していると示唆されている(島津・立石1993,竹内ほか2000)が,正確な位置は特定されていない.
したがって,新潟-長野県境部における,地質調査を構造学的観点からより詳細に行うことで,本地域のテクトニクスを解明し,本地域に支配的なトレンドがE-W方向か,新潟方向であるかを確かめ,向斜構造や活断層の姿勢を議論する目的で,研究を行った.さらに,本地域に存在する小断層の解析を行うことで,古応力の変遷を求めた.
調査の結果,北東に存在する信濃川向斜は,津南町において屈曲し,本地域まで連続するが,宮野原で殲滅することが分かった.また,以西の地域においては信濃川向斜と同じくE-W走向を持つ,千曲川向斜を新たに認定した.本地域の地層は,概ね,この二本のE-W走向を持つ向斜構造によって規定されている.この二本の褶曲構造は軸の位置がずれていることとプランジ方向の違いから連続しないと考えた.
また,十日町市内において十日町断層帯西部と褶曲構造の姿勢を求めた瀬賀(2012MS)の断面図と,本研究における宮野原断層を跨ぐ断面図を比較すると,断層の直上において緩傾斜,急傾斜,緩傾斜と続く撓曲を形成することで両者の褶曲の形態は一致している.したがって,両断層は同じ姿勢であると考えられる.よって,この両者は一連の断層帯であり,十日町断層帯西部を構成していることは,地質調査からも明らかになった.また,十日町断層帯西部は宮野原断層を南限とすると考えられているが,さらに西方の,平滝周辺にも同様の姿勢の撓曲が観察されるため,十日町断層帯西部の南端はさらに西に延長される可能性がある.
さらに本地域の小断層の解析より,本地域はσ1をNW,σ3をSWとする横ずれ断層型応力にたびたび置かれてきたことが明らかになった.
この応力は,本地域で2011年,3月12日に起こった長野県北部地震の余震の発震機構と整合的であり,東北地方太平洋沖地震後の現在と同様の応力化にあったことを反映していると考えられる.