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[SSS34-P27] 1771年八重山津波の断層モデルの再検討
キーワード:津波, 琉球海溝, プレート間地震, 歴史津波
1771年4月24日に南西諸島南部で発生した八重山津波(明和の大津波)は、最大遡上高約30m、死者約12000人もの多大な被害をもたらした津波であった。琉球海溝で発生しうる最大級の津波を考える上で非常に重要な津波であるものの、この津波の波源域モデルについては不明な点が多く残っていた。そこで、新たに明らかになった知見をもとに津波の断層モデルを検討した。
まず、宮古島の遡上高を修正した。古文書・伝承の中で妥当性の高い証拠を基にした津波遡上高は、石垣島周辺で約30m、多良間島で15m、伊良部島で15m、宮古島で18mである(後藤・他、2011)。宮古島南部については従来、球陽に記載された宮古島南部集落での遡上高約10.5mが用いられてきた。しかし地元に残る伝承(後藤・他、2011)や、宮古島に残された八重山津波に関する資料「御問合書」に記録された集落の被害状況から推定した遡上高の値約20m(加藤、1988)から判断すると、宮古島南部での遡上高は約20mであったと考えるのが妥当であろう。
また、津波は平坦な島の内部まで遡上した。最大遡上高としては石垣島での約30mという値が顕著であるが、それ以外の平坦な島でも島の内陸部まで津波浸水が生じている。多良間島は標高10~14mの石灰岩台地が広がる島である。津波はこの島の中央よりやや北側にある集落(仲筋、塩川)の標高15m地点まで達した。集落の北側には標高30mの丘陵があるため、津波は東西または南の海岸から約1.5~3km遡上してきたと考えられる。下地島も多良間島と同様に標高10~20mの石灰岩台地の島である。この島は津波当時無人島であったが、御問合書には「平坦之所ニ波打越作物惣様相損海垣迄被取其上土も大半引流置候馬之内五拾五疋又ハ百姓所持之牛羊等到溺死候」(島尻, 1988)と書かれており、島が広範囲で津波浸水したことが読み取れる。
以上、これらのことをもとに断層モデルを再検討した。検証を行ったモデルは、プレート内活断層+海底地すべりモデル(Miyazawa et al., 2012)、宮古島沖の分岐断層のみが活動するモデル(Hsu et al., 2013)、および琉球海溝でのプレート間地震(Nakamura, 2009)を修正したモデルである。
まず、活断層+海底地すべりによるモデル(Miyazawa et al., 2012)を用いた場合、各地の遡上高は宮古島周辺を除いて再現することができた。しかし多良間島と下地島の浸水域は海岸から約500mおよび200mであり、島の内陸部まで浸水域が広がる様子は再現できなかった。これは想定している断層モデルが70°と高角断層であるため波源域の幅が狭くなり、沿岸波高および遡上高は高いものの内陸部まで津波が遡上できないためであると考える。
宮古島沖の分岐断層のみが活動した場合、滑り量を調整することで宮古島での遡上高は再現できるが、多良間島での遡上域、および石垣島での遡上高は再現できなかった。
プレート間地震であるとした場合、断層長さ200km、断層幅70km、滑り量20m、傾斜12度の断層モデル(Mw8.6)で計算をおこなった場合、石垣島東部以外の遡上高および浸水域を再現できた。多良間島での浸水域は海岸から約1.5kmまで達し、下地島でも島東部の標高10m以下の部分が広範囲で浸水した。しかしこのモデルでは石垣島南東部の遡上高が約20mとなり、記録された遡上高約30mを再現できない。そこで石垣島南方沖のプレート上面の一部に長さ・幅が40km・30km、滑り量40mの局所的な大滑り領域を設定した(全体でMw8.7)ところ、石垣島東部での遡上高をも再現できた。
これらのことから1771年八重山津波の断層モデルとしてはMw8.7程度のプレート間地震が妥当であると考える。ただし石垣島南方沖には他よりも大きめの滑りを必要とする。ただしこれは必ずしもプレート間の断層滑りでなくても良い。他の可能性として分岐断層の活動や海底地滑りも考慮すべきかもしれない。
まず、宮古島の遡上高を修正した。古文書・伝承の中で妥当性の高い証拠を基にした津波遡上高は、石垣島周辺で約30m、多良間島で15m、伊良部島で15m、宮古島で18mである(後藤・他、2011)。宮古島南部については従来、球陽に記載された宮古島南部集落での遡上高約10.5mが用いられてきた。しかし地元に残る伝承(後藤・他、2011)や、宮古島に残された八重山津波に関する資料「御問合書」に記録された集落の被害状況から推定した遡上高の値約20m(加藤、1988)から判断すると、宮古島南部での遡上高は約20mであったと考えるのが妥当であろう。
また、津波は平坦な島の内部まで遡上した。最大遡上高としては石垣島での約30mという値が顕著であるが、それ以外の平坦な島でも島の内陸部まで津波浸水が生じている。多良間島は標高10~14mの石灰岩台地が広がる島である。津波はこの島の中央よりやや北側にある集落(仲筋、塩川)の標高15m地点まで達した。集落の北側には標高30mの丘陵があるため、津波は東西または南の海岸から約1.5~3km遡上してきたと考えられる。下地島も多良間島と同様に標高10~20mの石灰岩台地の島である。この島は津波当時無人島であったが、御問合書には「平坦之所ニ波打越作物惣様相損海垣迄被取其上土も大半引流置候馬之内五拾五疋又ハ百姓所持之牛羊等到溺死候」(島尻, 1988)と書かれており、島が広範囲で津波浸水したことが読み取れる。
以上、これらのことをもとに断層モデルを再検討した。検証を行ったモデルは、プレート内活断層+海底地すべりモデル(Miyazawa et al., 2012)、宮古島沖の分岐断層のみが活動するモデル(Hsu et al., 2013)、および琉球海溝でのプレート間地震(Nakamura, 2009)を修正したモデルである。
まず、活断層+海底地すべりによるモデル(Miyazawa et al., 2012)を用いた場合、各地の遡上高は宮古島周辺を除いて再現することができた。しかし多良間島と下地島の浸水域は海岸から約500mおよび200mであり、島の内陸部まで浸水域が広がる様子は再現できなかった。これは想定している断層モデルが70°と高角断層であるため波源域の幅が狭くなり、沿岸波高および遡上高は高いものの内陸部まで津波が遡上できないためであると考える。
宮古島沖の分岐断層のみが活動した場合、滑り量を調整することで宮古島での遡上高は再現できるが、多良間島での遡上域、および石垣島での遡上高は再現できなかった。
プレート間地震であるとした場合、断層長さ200km、断層幅70km、滑り量20m、傾斜12度の断層モデル(Mw8.6)で計算をおこなった場合、石垣島東部以外の遡上高および浸水域を再現できた。多良間島での浸水域は海岸から約1.5kmまで達し、下地島でも島東部の標高10m以下の部分が広範囲で浸水した。しかしこのモデルでは石垣島南東部の遡上高が約20mとなり、記録された遡上高約30mを再現できない。そこで石垣島南方沖のプレート上面の一部に長さ・幅が40km・30km、滑り量40mの局所的な大滑り領域を設定した(全体でMw8.7)ところ、石垣島東部での遡上高をも再現できた。
これらのことから1771年八重山津波の断層モデルとしてはMw8.7程度のプレート間地震が妥当であると考える。ただし石垣島南方沖には他よりも大きめの滑りを必要とする。ただしこれは必ずしもプレート間の断層滑りでなくても良い。他の可能性として分岐断層の活動や海底地滑りも考慮すべきかもしれない。