18:15 〜 19:30
[SSS27-P01] スラブ全体の応力分布が2004年紀伊半島南東沖の地震後に一変した~折り返し点通過、残り50年か~
(図面を参照のこと スラブ名・海底地形名等は便宜上命名した)
(1)では2004年紀伊半島南東沖の地震と1944年東南海地震の関係を研究し以下の結果を得た。
東進する中国地方のマントルが南海スラブの縁を押す。スラブは右回転力とトラフ南側からの反作用の間に挟まれて圧縮されている。しかしトラフ南側は一様でなく杭のように抵抗する海山が二つあり反作用応力が集中している。2004年の地震で「杭」の北側が破壊した後、「杭」へ力が伝わるルートが「北から」が「北西から」に転換した。
(2)では南海スラブの表面や内部で発生した地震の発震機構を利用して右回転力の証拠を探った。その結果紀伊水道南を回転中心とする(円弧)ar1~ar5の接線と圧縮軸が調和的な地震が広く分布し右回転を仕向ける力が実在することが判明した。
本稿は(1)(2)を統合することで得られる成果について報告したい。
図2のブロック矢印は(2)で得られた南海スラブの各領域で発生した地震の平均的な圧縮軸の方向である。縁を押す圧縮力はスラブ内を伝達し応力集中する海山やその他に達する。その代表的伝達ルートをブロック矢印に続けて(破線矢印)A2~D2で表現したがA2以外は海山に直結する「北から」圧縮ルートである(図2)。これらは2004年に劇的に方向転換した。A2,B2がそれぞれA1,B1に変化し「北西から」圧縮ルートを形成した(図1)。A1の根拠については1944年の震源と3個の余震が列を成して海山WMと結ばれている(図1)ので1944年以前の圧縮ルートと判断できたことによる。
浜名湖より南でar4とar5の間の範囲では1944年以降2004年まで中小地震の発生も少ない(3)。これは1944年の破壊により応力伝達ルートとして失格になった証と考えたい。1944年での右回転の外周はar5より内側の亀裂(b)をなぞった(4)。1944年までの伝達ルートはC1,E1のようであったろうから横ずれと潰れが発生した(図1)。ただし浜名湖の真下は両スラブの分離・密着の始点終点で履歴により形状複雑なところへまた南海スラブが這い上がる。新たな破断・褶曲が避けられない。1944年の地震前後で観測された上下変動(天竜川東岸の隆起と名古屋周辺の沈降)の説明に浜名湖周辺域での前駆的すべりを仮定する(5)よりは本震破壊過程(根幹はスラブの回転・這い上がり)そのものであろうと主張しておきたい。この上下変動とスラブの運動の効果・影響は調和的である。それでは1944年以降の伝達ルートはどうなったか。C1は西へ反れて「北から」圧縮ルートC2.D2に変化し、E1はE2の如く東方へ向きを変えた圧縮力に変化したはずである(図2)。
(6)は非定常地殻変動(東海スロースリップ)の水平変位を以下如く明らかにした。観測開始から2000年半ばまでは定常と見なせるがそれ以降2004年8月まで南東方向への変位が連続した。地震後は2005年を経て2006年までに南南東方向への変位に変わった。この事実は、2004年の地震の前のE2で表す圧縮力の存在と矛盾せず、さらにその地震後E2はE1で表す圧縮力に変化したとすることに調和的である。
今後の見通しは「北西から」圧縮がしばらく続いた後「北から」圧縮に戻す地震が発生する。これが次回の東南海地震である。2004年の地震は折り返し点で文字通りの中間点なら今回のサイクルは120年、残された時間は50年である。
(1)間瀬博文/杭の如き応力集中を起こす南海トラフ沿い2つの海山/JpGU2015S-SS30投稿中
(2)間瀬博文/発震機構が示す紀伊半島とその下のスラブの右回転傾向の証拠/JpGU2015S-SS31投稿中
(3)AIST/地下構造可視化システム/気象庁震源カタログ (4)間瀬博文(2014)/Jpgu2014/SSS29-P10
(5)木股・鷺谷(2005)/水準測量データの再検討による1994年東南海地震プレスリップ/名大
(6)水藤・小沢(2006)/12-1GPS連続観測から見た東海スロースリップ/GSI
(1)では2004年紀伊半島南東沖の地震と1944年東南海地震の関係を研究し以下の結果を得た。
東進する中国地方のマントルが南海スラブの縁を押す。スラブは右回転力とトラフ南側からの反作用の間に挟まれて圧縮されている。しかしトラフ南側は一様でなく杭のように抵抗する海山が二つあり反作用応力が集中している。2004年の地震で「杭」の北側が破壊した後、「杭」へ力が伝わるルートが「北から」が「北西から」に転換した。
(2)では南海スラブの表面や内部で発生した地震の発震機構を利用して右回転力の証拠を探った。その結果紀伊水道南を回転中心とする(円弧)ar1~ar5の接線と圧縮軸が調和的な地震が広く分布し右回転を仕向ける力が実在することが判明した。
本稿は(1)(2)を統合することで得られる成果について報告したい。
図2のブロック矢印は(2)で得られた南海スラブの各領域で発生した地震の平均的な圧縮軸の方向である。縁を押す圧縮力はスラブ内を伝達し応力集中する海山やその他に達する。その代表的伝達ルートをブロック矢印に続けて(破線矢印)A2~D2で表現したがA2以外は海山に直結する「北から」圧縮ルートである(図2)。これらは2004年に劇的に方向転換した。A2,B2がそれぞれA1,B1に変化し「北西から」圧縮ルートを形成した(図1)。A1の根拠については1944年の震源と3個の余震が列を成して海山WMと結ばれている(図1)ので1944年以前の圧縮ルートと判断できたことによる。
浜名湖より南でar4とar5の間の範囲では1944年以降2004年まで中小地震の発生も少ない(3)。これは1944年の破壊により応力伝達ルートとして失格になった証と考えたい。1944年での右回転の外周はar5より内側の亀裂(b)をなぞった(4)。1944年までの伝達ルートはC1,E1のようであったろうから横ずれと潰れが発生した(図1)。ただし浜名湖の真下は両スラブの分離・密着の始点終点で履歴により形状複雑なところへまた南海スラブが這い上がる。新たな破断・褶曲が避けられない。1944年の地震前後で観測された上下変動(天竜川東岸の隆起と名古屋周辺の沈降)の説明に浜名湖周辺域での前駆的すべりを仮定する(5)よりは本震破壊過程(根幹はスラブの回転・這い上がり)そのものであろうと主張しておきたい。この上下変動とスラブの運動の効果・影響は調和的である。それでは1944年以降の伝達ルートはどうなったか。C1は西へ反れて「北から」圧縮ルートC2.D2に変化し、E1はE2の如く東方へ向きを変えた圧縮力に変化したはずである(図2)。
(6)は非定常地殻変動(東海スロースリップ)の水平変位を以下如く明らかにした。観測開始から2000年半ばまでは定常と見なせるがそれ以降2004年8月まで南東方向への変位が連続した。地震後は2005年を経て2006年までに南南東方向への変位に変わった。この事実は、2004年の地震の前のE2で表す圧縮力の存在と矛盾せず、さらにその地震後E2はE1で表す圧縮力に変化したとすることに調和的である。
今後の見通しは「北西から」圧縮がしばらく続いた後「北から」圧縮に戻す地震が発生する。これが次回の東南海地震である。2004年の地震は折り返し点で文字通りの中間点なら今回のサイクルは120年、残された時間は50年である。
(1)間瀬博文/杭の如き応力集中を起こす南海トラフ沿い2つの海山/JpGU2015S-SS30投稿中
(2)間瀬博文/発震機構が示す紀伊半島とその下のスラブの右回転傾向の証拠/JpGU2015S-SS31投稿中
(3)AIST/地下構造可視化システム/気象庁震源カタログ (4)間瀬博文(2014)/Jpgu2014/SSS29-P10
(5)木股・鷺谷(2005)/水準測量データの再検討による1994年東南海地震プレスリップ/名大
(6)水藤・小沢(2006)/12-1GPS連続観測から見た東海スロースリップ/GSI