日本地球惑星科学連合2015年大会

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口頭発表

セッション記号 S (固体地球科学) » S-SS 地震学

[S-SS28] 活断層と古地震

2015年5月27日(水) 16:15 〜 18:00 103 (1F)

コンビーナ:*吾妻 崇(独立行政法人産業技術総合研究所)、杉戸 信彦(法政大学人間環境学部)、藤内 智士(高知大学理学部応用理学科)、吉岡 敏和(独立行政法人産業技術総合研究所活断層・地震研究センター)、座長:吾妻 崇(独立行政法人産業技術総合研究所)

16:15 〜 16:30

[SSS28-01] 南海トラフ巨大地震の「安政型」と「宝永型」について

*石橋 克彦1 (1.神戸大学名誉教授)

キーワード:南海トラフ巨大地震, 歴史地震, くり返しパターン, 安政型, 宝永型

●南海トラフ巨大地震の発生様式や発生機構は新たな見直しの段階に入っている(例えば,石橋, 2014,『南海トラフ巨大地震』岩波書店).瀬野(2012,地震ii,64,97)は,従来の,震源域をA~E領域(図参照)に割り振る考え方に疑問を呈し,破壊様態とシリーズに関する新説を発表した.すなわち,seismic-b.eq(震源断層面上で短周期地震波を生成する領域;以下,sb)の特徴によって「安政型」と「宝永型」に2分でき,前者(sbが駿河湾に入り込み熊野灘には存在しない)は1854,1498,1096(+1099),684年の地震で平均間隔は約400年,後者(sbが駿河湾に入り込まず熊野灘には存在する)は1944(+1946),1707,1361,887年の地震で平均間隔は約350年だという.そして,1944年と1854年はsbが相補的だから「Eが未破壊」という東海地震説は成り立たず,Eを破壊する東海地震(安政型)の発生は約200年先だろうとした.本報では,sbの特徴の認定が妥当か,安政型と宝永型が確かに存在するか,を歴史地震学的に検討する.
●「安政型」:1854年安政東海地震のsbがC+Dにはなかったと瀬野が考えた根拠は,紀伊半島の震度は6未満という認識だった.しかし,熊野灘にsbがあった1944年地震でも,尾鷲以北はおおむね震度5弱,熊野市木本以南は震度4で,震度6は唯一新宮の狭い範囲と三重県大杉谷だけだった.一方安政東海地震では新宮・熊野などが震度5~6,志磨市越賀は震度7だった.伊勢湾周辺にも震度6が分布するから,1854年のsbは少なくともDを含み,さらにCでも地震波を放出したと考えたほうがよい.瀬野は,geodetic-b.eq(地殻変動をもたらす震源領域)もCにはなかったとしているが,湯峯温泉の停止は熊野灘の震源断層運動による可能性がある.尾鷲で地震後じきに津波が来たことは,tsunami-b.eq(津波を発生させる震源領域)もC領域に存在したことを示唆する.1498年も,1096年も,熊野灘にsbがなかったとはいえない.結局,「安政型」という類別は成り立たないと考えられる.
●「宝永型」:瀬野に限らず,1707年宝永地震の震源域は駿河湾に入っていなかったという見方が強くなっている.しかし,安政期に比べて史料が圧倒的に少ないことも考慮して震度分布を見れば,駿河湾内にある程度のsbはあったと考えられる.瀬野は,1361年については門間沼遺跡(愛知県一宮市)より東に,887年については地蔵越遺跡(同県稲沢市)より東に,それぞれ文献史料や考古学資料がないことをあげて,両地震が宝永型だったことと矛盾しないというが,古地震学の制約を考えればこのような議論はできない.両地震の時期に駿河湾北岸の浮島ヶ原が急激に沈降した可能性(藤原・他,2009,地質学会講演要旨など)が注目される.結局「宝永型」という類別は疑問である.
●結論:瀬野が指摘したように,A~E領域の固有地震的なものの組み合わせとして南海トラフ巨大地震を捉えるのはよくないだろうが,安政型と宝永型という新たな類型の導入も適切ではないと思われる.なお,石橋(2014)が見直した南海トラフ巨大地震の時空間分布を図に示す.【本発表は日本地震学会2014年度秋季大会に申し込み,予稿集にも掲載されているが,怪我で参加不能となって取り消したものである】