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[HDS27-14] 宝永地震(1707)および安政南海地震(1854)の豊後水道両岸での津波の高さ分布
キーワード:安政南海地震津波, 宝永地震津波, 豊後水道, 愛媛県, 大分県, 宮崎県
豊後水道の両岸の四国・愛媛県、九州・大分県、宮崎県の海岸で、安政南海地震(1854)、および宝永地震(1707)の津波浸水、および遡上高さの調査を行った。豊後水道両岸にわたる計測器械による全面的な測定調査はこれまで全く行われたことがなかった。愛媛県側における一連の南海地震による津波被害は、主として佐田岬半島以南の直接太平洋に面した豊後水道沿岸で発生していて、それ以北の周防灘、瀬戸内海の海岸は津波の被害はそれほど大きくはなかった(羽鳥、1988)。このため、われわれは、愛媛県側は佐田岬半島以南、九州側は別府湾以南について現地調査を行った。愛媛県のこの範囲は、江戸時代にはほぼ宇和島藩に属していた。したがって、『大控』などの信頼性の高い同藩の公的文書を基本にして調査することが出来た。愛媛県の調査は2015年1月22日から24日にかけて行った。九州海岸での測定結果を合わせて、津波高さの分布図を示す。安政南海地震の津波では、愛媛県では最南部にある愛南町でもっとも津波浸水高さが大きく、深浦で5.6m、約100軒中70軒が流失した。また下久家(しもひさげ)で6.3m、全戸流失と記録されている。宇和島城下では、おおむね浸水高さは3~4mであり、標高の高い南部の市街地を除いて城下の市街地の70%ほどが浸水したと推定される。宇和島市中心街の北方にある吉田は、宇和島の支藩・吉田藩の陣屋が置かれていたが、港近くの街区にあった庄屋赤松家の居宅の「鴨居」に海水がついたと『赤松家庄屋記録』に記され、ここでは浸水高さは4.3mと測定された。八幡浜市保内の三嶋神社は海岸から約1.5kmにあるが、六百石船がこの鳥居前まで運ばれたと記録され、ここでも5.1mの浸水高さがあったことが判明した。宝永地震の津波では、宇和島城下では『記録書抜』に家老・桜田数馬の邸宅(堀端町)の玄関前に浸水した、との記載から、津波浸水高さは最低6.0mあったことが確実である。すなわち宝永津波は安政津波よりさらに2~3m浸水高さが大きかったことが判明した。安政南海地震の津波の大分県の記録では、佐伯藩主毛利家の『寅十一月五日七日両度大地震且高汐による損所覚』に現在の佐伯城下から宮崎県境までの海岸線にある21ヶ所の集落について、被災家屋数、人的被害数、田畑の浸水被害面積などの数字が詳細に記録されている。一方、平凡社(1997)の「日本歴史地名大系・大分県」によって、これらの集落の江戸時代の総家数、全田畑面積を知ることができる。さらに明治30~40年代に発行された五万分の一地図によって、およその浸水範囲を知ることができる。大分県、宮崎県の海岸の現地調査は2014年11月25日から28日にかけて行った。その結果を図に示す。図中の数字はすべてTP基準で測定した津波浸水高さであって、津波遡上高さではない。佐伯城下市街地では安政南海地震の津波高さはおおむね3mであった。佐伯の南の旧米水津(よのうず)村と蒲江(かまえ)町の地域で津波高さが大きく、米水津の大浦で7.0m、蒲江の竹野浦、丸市で各7.1mであった。九州での宝永地震の津波はやはり米水津で大きく浦代で11.5mであったことが知られている(千田ら、2004)。宝永地震津波では、大分市原で7.4m、鶴崎で4m、佐伯城下の大手前で3.7mであって、これらの場所でも安政南海地震の浸水高さより大きかったことが判明した。
本稿は、原子力規制庁からの委託業務「平成26年度原子力施設等防災対策等委託費(津波痕跡データベースの高度化) 事業」(代表:東北大学 今村文彦)の成果の一部を取りまとめたものである。
本稿は、原子力規制庁からの委託業務「平成26年度原子力施設等防災対策等委託費(津波痕跡データベースの高度化) 事業」(代表:東北大学 今村文彦)の成果の一部を取りまとめたものである。