12:00 〜 12:15
[MZZ45-05] 日本における台風の数値予報の始まり
キーワード:気象学史, 数値予報, 台風
1959年、電子計算機を使った気象予報業務を、気象庁が開始した。これは、「東京数値予報グループ」という研究会に集った研究者たちの、それまでの仕事に基づくものであった。本講演は、彼ら気象学者たちの手により1950年代になされた、初期の数値予報の発展を描き出そうとするものである。とりわけ、日本で独自に手法が開発された、台風の進路予測に注目したい。
電子計算機を用いた気象の数値予報が最初に行われたのは1950年、アメリカにおいてであり、これはプリンストン高等研究所の、J・チャーニー率いる研究グループによるものであった。このチャーニーらの成果は、東京大学の教授で気象力学の専門家であった正野重方に衝撃を与えた。正野の学生だった岸保勘三郎は、チャーニーに手紙を書き、1952年から54年にかけてプリンストンで学んでいる。アメリカでの成功を受け、日本の気象学者たちも数値予報の研究に乗り出し、1953年末には正野を中心として「数値予報グループ」が結成された。岸保は日本に戻ったあと、その実質的なリーダーとなった。
「数値予報グループ」の一つの特徴として、メンバーが学術と実務の両組織から集まっていたことが挙げられる。具体的には、東京大学、中央気象台(1956年に気象庁に改組)、気象研究所(中央気象台や気象庁に附属)である。台風の予測ということに関する限りでは、1950年代に主な貢献を行ったのは、東京大学の佐々木嘉和と都田菊郎、気象庁の寺内栄一や鍋島泰夫など、それに気象研究所の増田善信であった。1959年に気象庁でコンピュータによる予報が始められたさいには、寺内や増田を始めとする人々により、その準備が行われた。
電子計算機の登場以前には、台風の予報は経験的な手法で行われており、予報官たちは台風の動き方について、実用的な経験則を得ていた。中でも重要だったのは、「台風は一般流によって流される」というものである。ここで一般流とは、台風の渦を取り巻く大気の流れをいう。佐々木と都田は、この経験的な知見を数値予報に取り込んだ。渦度の場を、台風それ自体とその残りとに分離することによって、いくつかの台風の進路を再現することができたのである。もっとも、数値予報とは言っても、まだ計算機が無かったため、彼らは計算を手で行った。その結果(1954年に出版された)はただちに、日本でなされた重要な成果であると見なされた。
佐々木=都田の方法は、すぐにほかの気象学者にも受け入れられ、拡張された。気象庁では、1955年にこの方法がいくつかの台風についてテストされ、ほかの方法と比較された。さらにその翌年になると、気象庁の研究者たちは、電気試験所で製作されたリレー計算機、ETL Mark IIを利用することができた。寺内らはこの機会を利用し、傾圧性の効果を一部含むようにモデルを変更した。これに対し、既存の順圧モデルを改善する必要性を訴えたのが増田であり、1957年に、流線関数を用いた別の手法を提案している。計算を実行するにあたっては、別のリレー計算機であるFACOM 128(富士通)と、富士フイルムで開発された小型の電子計算機FUJICを使うことができた。こうした先行する努力があったために、気象庁は1959年にIBM 704が導入されてすぐ、台風の予報業務を始めることができたのである。
このように、計算のための道具は手からリレー計算機や電子計算機へと変わっていったのだが、1950年代においてモデル製作のための基本的考え方を提供したのは、それ以前の経験的知識に基づく佐々木=都田の方法であった。この意味で、台風の数値予報の初期の発展は、電子計算機の出現以前と以後において、不連続性というよりもむしろ連続性を示している。
電子計算機を用いた気象の数値予報が最初に行われたのは1950年、アメリカにおいてであり、これはプリンストン高等研究所の、J・チャーニー率いる研究グループによるものであった。このチャーニーらの成果は、東京大学の教授で気象力学の専門家であった正野重方に衝撃を与えた。正野の学生だった岸保勘三郎は、チャーニーに手紙を書き、1952年から54年にかけてプリンストンで学んでいる。アメリカでの成功を受け、日本の気象学者たちも数値予報の研究に乗り出し、1953年末には正野を中心として「数値予報グループ」が結成された。岸保は日本に戻ったあと、その実質的なリーダーとなった。
「数値予報グループ」の一つの特徴として、メンバーが学術と実務の両組織から集まっていたことが挙げられる。具体的には、東京大学、中央気象台(1956年に気象庁に改組)、気象研究所(中央気象台や気象庁に附属)である。台風の予測ということに関する限りでは、1950年代に主な貢献を行ったのは、東京大学の佐々木嘉和と都田菊郎、気象庁の寺内栄一や鍋島泰夫など、それに気象研究所の増田善信であった。1959年に気象庁でコンピュータによる予報が始められたさいには、寺内や増田を始めとする人々により、その準備が行われた。
電子計算機の登場以前には、台風の予報は経験的な手法で行われており、予報官たちは台風の動き方について、実用的な経験則を得ていた。中でも重要だったのは、「台風は一般流によって流される」というものである。ここで一般流とは、台風の渦を取り巻く大気の流れをいう。佐々木と都田は、この経験的な知見を数値予報に取り込んだ。渦度の場を、台風それ自体とその残りとに分離することによって、いくつかの台風の進路を再現することができたのである。もっとも、数値予報とは言っても、まだ計算機が無かったため、彼らは計算を手で行った。その結果(1954年に出版された)はただちに、日本でなされた重要な成果であると見なされた。
佐々木=都田の方法は、すぐにほかの気象学者にも受け入れられ、拡張された。気象庁では、1955年にこの方法がいくつかの台風についてテストされ、ほかの方法と比較された。さらにその翌年になると、気象庁の研究者たちは、電気試験所で製作されたリレー計算機、ETL Mark IIを利用することができた。寺内らはこの機会を利用し、傾圧性の効果を一部含むようにモデルを変更した。これに対し、既存の順圧モデルを改善する必要性を訴えたのが増田であり、1957年に、流線関数を用いた別の手法を提案している。計算を実行するにあたっては、別のリレー計算機であるFACOM 128(富士通)と、富士フイルムで開発された小型の電子計算機FUJICを使うことができた。こうした先行する努力があったために、気象庁は1959年にIBM 704が導入されてすぐ、台風の予報業務を始めることができたのである。
このように、計算のための道具は手からリレー計算機や電子計算機へと変わっていったのだが、1950年代においてモデル製作のための基本的考え方を提供したのは、それ以前の経験的知識に基づく佐々木=都田の方法であった。この意味で、台風の数値予報の初期の発展は、電子計算機の出現以前と以後において、不連続性というよりもむしろ連続性を示している。