日本地球惑星科学連合2015年大会

講演情報

口頭発表

セッション記号 S (固体地球科学) » S-SS 地震学

[S-SS28] 活断層と古地震

2015年5月27日(水) 16:15 〜 18:00 103 (1F)

コンビーナ:*吾妻 崇(独立行政法人産業技術総合研究所)、杉戸 信彦(法政大学人間環境学部)、藤内 智士(高知大学理学部応用理学科)、吉岡 敏和(独立行政法人産業技術総合研究所活断層・地震研究センター)、座長:吾妻 崇(独立行政法人産業技術総合研究所)

17:15 〜 17:30

[SSS28-05] 1855年安政江戸地震における千葉県域の被害

*村岸 純1佐竹 健治1 (1.東京大学地震研究所)

キーワード:1855年安政江戸地震, 歴史地震, 史料

安政江戸地震は、安政二年十月二日夜四ッ時(1855年11月11日)に発生し、江戸市中を中心に関東地方に被害を与えた地震である。北原(2013,『地震の社会史』)は江戸市中の被害と地震後の救済について論じている。中村ほか(2011,歴史地震)は、江戸市中の被害から震度分布図の作成や首都圏の被害などの研究を行っている。いずれの研究も主に江戸市中を研究対象としており、千葉県域では佐倉・木更津など一部地域を除いて被害の有無が明らかになっていない。千葉県域の被害の程度を明らかにするため、千葉県文書館・船橋市郷土資料館・慶應義塾大学文学部古文書室等において史料調査を実施した。史料調査と共に、これらの地域の安政江戸地震に関係する史料について、自治体史を中心に文献調査をした。この成果を報告する。
はじめに千葉県北西部の被害について報告する。『習志野市史 第三巻』に『渡辺東淵雑録』がある。鷺沼村の医師渡辺東淵が文政七~安政六年にわたり近隣諸村で起きた出来事をまとめたものである。「十二(ママ)月二日ノ夜四ツ時、夜明迄十ド毎日四ツ五ツ位大々地震 所々地ワレル、西東へ割め通ル、北南ノサケメスクナシ」と、鷺沼村では地割れが発生するほどの強い揺れであったことが推測される。ただし、家屋・人的被害は記載されておらず不明である。
隣接する船橋市域では『船橋市史 史料編十』所収の「地震変動控」があるが、「武蔵下総上総常陸四ヶ国大地震、多家潰」とあるのみで、船橋市域での被害記録はない。船橋市内ではこの記録のみが知られていたが、今回、船橋市郷土資料館において調査したところ武藤家文書の『大福帳』の中に地震の記述を見つけた。「当所ニ而者潰家一軒も無之、尚又、即死人も無難ニ御座候、行徳辺、市川辺、松戸近辺者相応ニ破家有之候、尚また怪我人も是村ニ而凡十人計り候有之由、去なから当所ニおいてハ別段即死人も無之」とある。武藤家は現在の船橋市宮本あたりに家があったらしく、このあたりでは潰れた家や怪我人が出たりするほどの被害はなかったようである。
船橋市域で書かれた史料は上記の史料のみであるが、地震後に船橋市域を通過したという人物の記録がある。北東部に位置する東金市台方村の名主が記した『前嶋治助日記』(『千葉県の歴史 史料編 近世1』)という史料である。名主の前嶋治助は領主より呼び出されたため、九日に江戸に向けて出発した。その道中、「地震之儀者行徳辺より家潰れ初、中川御番所より本所・深川大潰れニ而、誠ニ驚入申候」と、行徳付近から潰れた家が確認され始めたという。次に、『成田山新勝寺史料集 第5巻』の『江戸開帳諸用留』によると、千住宿では、地震で被害があったため開帳行列の本陣を変更してほしい旨が申し出されている。一方、船橋宿ではこれまでの本陣のままである。このことから船橋市域では、江戸市中と比べると被害が小さかったと推測される。
次に千葉県南部の被害についてである。千葉県文書館所蔵県史収集複製資料の中から、宝珠院の日記を発見した。『安政二乙卯年日記』(南房総市府中 宝珠院文書)の十月二日の条には、宝珠院の石碑・石灯籠・宝筐印塔が倒れたこと、仁王門が西方へゆり出したことが記録されている。また周辺の寺院にも被害があったことが記されている。宝珠院の隣村である本織村の加藤家文書(慶應義塾大学古文書室蔵)の中に『日記覚』があり、その中にも十月二日は「極大地震」であったと記されている。江戸周辺のみならず、南房総でも揺れが強かったことが推測される。
以上をまとめると、千葉県北西部では、地震の具体的な被害を記した史料が少ないが、他の史料から推測すると千住や深川辺りと比べて被害は軽微であった可能性が考えられる。千葉県南部地域では,宝珠院の日記を発見し、南部にも被害があったことが確認できた。今後、安政江戸地震の史料調査を進め、千葉県域の被害を明らかにしていきたい。
付記)本研究は文部科学省受託研究「都市の脆弱性が引き起こす激甚災害の軽減化プロジェクト」の一環として実施された。