日本地球惑星科学連合2016年大会

講演情報

ポスター発表

セッション記号 A (大気水圏科学) » A-HW 水文・陸水・地下水学・水環境

[A-HW17] 水循環・水環境

2016年5月25日(水) 17:15 〜 18:30 ポスター会場 (国際展示場 6ホール)

コンビーナ:*樋口 篤志(千葉大学環境リモートセンシング研究センター)、長尾 誠也(金沢大学環日本海域環境研究センター)、林 武司(秋田大学教育文化学部)、内田 洋平((独)産業技術総合研究所地質調査総合センター)

17:15 〜 18:30

[AHW17-P10] 水環境と人間環境(2011東北大地震を例として)

*西澤 勝1 (1.なし)

副題)「津波により構造物が破壊」結果「人間の心も破壊」
私は、この去る10月、気仙沼を出発して、海岸沿いに津波跡地の復興状況を視察した。気仙沼湾を一望できるある墓に立つと、奇しくも、代議士小野寺氏の親戚という叔母さんに出会う。“野花”しか供えられないと、悲しそう。野花でいいじゃないですかとなぐさめた。
殆どの墓には野花もない。しばらくは墓参りに来たとは思われない墓の風景は、どこの地方の墓も同じだ。この墓はどうやら代議士小野寺五典氏の菩提寺のようで、かなりの数の小野寺家の墓があった。その墓から45号線を100m程下ると、“浪到達点”の碑があった。津波はここまで来たわけである。
これより気仙沼湾岸に沿って、復興工事を見たり、住民の子連れでの釣りを見ながら仙台方面に向かい海沿いに下る。気仙沼湾一帯は今、矢板というのかそんなに厚くない鉄板をさかんに海に打ち込んでいる最中であった。新聞等の報道によると、7m程の高さに計画されている。工事中の土盛の上に昇って(丁度日曜日で、工夫のお休み中で無断で入れた。)海とその矢板のような鉄板のぶち込まれた海岸を下る。途中海を散歩するご夫婦や犬と散歩する人に出会う。
かなり仙台寄りに沿岸を歩き見してきた内日が暮れる。しかたなく45号線をひたすら歩くことにする。気仙沼市内のイーオンの広場では、若者たちが小雨にもかかわらずお祭りのようなライブに楽しんでいた。イーオンのシャワートイレに入りながらこの汚水は浄化後海に放出されるのだなと思う。気仙沼浄水場のサンマを一匹120代で6匹買う。日暮れとなった45号を仙台にひたすら歩く。“柳津”まで7時頃に着くと、今夜中に仙台に帰れるはずのバスがあった。
ひたすら夜の道を歩くと偶然“陸前小泉”とかのバス停に会う。時間を見ると8時50分に“志津川”行きのバスがあった。津波以前は鉄道であったが、今はJRバス。屋根はあり、時刻表はあり、歩き疲れた体を休めてバスを待つ。宮城バスの立札は小さくて暗い夜道では見失い易い。志津川行きのバスに乗ると女の人が2人、男が私を含めて2人。運転手の5人。志津川を降り2時、若いその1人の男の人が、今から仙台行きは無理だから“ホテル観洋”に泊まることを教えらる。志津川からただ45号線をひたすら柳津を目指して歩く。ホテル観洋は津波で骨格部分を残しやられたホテル。暗いホテルの前を通るとまず、女の人が来る。やりすごすと次に若いフロントが来る。全然泊まる気のないことを伝える。女の人は売春。男は客引きで止まるとどういうことになるか。ホテルをすぎる。真暗い45号線をひたすら“柳津”を目指す。途中“本吉”で町の女の子のアナウンス。ここでは“本吉はまなす”が復活したとの碑がある。知床の岬に“はまなすの咲くところ……”を口ずさむ。マイクは明日の医院の開院など住民に必要なことを伝え、一日の苦労をねぎらう。“献花台”があった。津波被害者のだ。前方は真黒くただ浪の音のみ。“祈り”をささげ頭を垂れる。
途中、カマボコ型の小さな貸小屋がいくつもある。1ヶ月4千円。それを過ぎると1日3000円とある。つまり1ヶ月以内に他を探して出て行きなさいよということ。いくつもあった。そろそろ“柳津”と思うが見当たらない。どうも道がそれていたらしい。私は45号をひたすら行き仙台を目指す。朝の5時を過ぎ柳津を通り過ぎたことを、缶コーヒーを買いに来たおじさんに教えらる。途中真暗い45号線は星が大きく美しかった。北斗七星の輝きは八ヶ岳以来の大きくて美しさであった。キラキラだ。何度も立ち止まって天を仰ぐ。
暗くて道路との路肩が判らず草に足をとられて転倒すること2、3度。ダンプは通り、乗用車はたまに通るが人家はまるでない海岸岩壁の合間を、車と対向して歩く。車が来るとライトがまぶしく、逆の隅によけて立ち止まる。上り下りの岩壁の合間に、時々、ここから先は過去の津浪到達点の表示あり。45号をひたすらあるくと“北上川”が右側に流れる。北上大堰も見え、世はうす明るくなる。結局、気付くと蛇田まであと10kmと出た。蛇田は友人の生家で石巻だ。北上夜曲を口ずさみながら蛇田方面に歩く。石巻、女川までは津波跡地をなんどもたずねた。石巻に着くと幼児が先生らしき人と出てきて石巻駅はあちらよと教えられた。子供に助けられた。それまでは大人の人は本当のことは言わない。うそを教えるので聞く気がおきなくなっていた。皆が皆そうではないが……。“なんとなくからかわれている気さえしていた”。あいつ今夜は仙台に帰れなくしてやれというような気配。石巻駅に近づくにつれ、子どもたちが元気で遊んだりしているのが救いであった。大きな声で言いたい。
◎“子供は未来の宝者”
石巻→仙台は仙台線が開通していた。車窓から、津波跡の“野蒜”“奥松島”“松島”“塩釜”を見る。結局石巻を午前11時頃発ち、仙台に午後1時前に着いたか。途中、車中から海岸にまるで高速道路の“音の遮蔽”板のようなものをみることができた。川沿いにも同じものが出来ている。気仙沼以北岩手寄りは完成しているとこもあるとか。
この考えは“陸”と“海”を“遮蔽”板で区切る考え。「音の遮蔽」と「海(波)と陸」の遮蔽は全く異なる。浜はなくなる。海の(自然の)恩恵を受くる者は、又自然の恐ろしさを知り、『海との共存』が大切。役人はじめ、代議士、知事、市町村長の頭は狂うているとしか思えない。山(岳)を削り、樹木を撫で切りにし、海や河川に“遮蔽板”のようなものをつくり、海浜はむろん海水の流れ、汚染を10~20年後に見てもらいたい。湾口防波堤でこりてるのでは!?10~20年経つと決まって、湾内の水質調査を依頼する。湾口を小さくして海水の出入りを制限すれば、湾内の推移は悪化することはあたりまえ。海は静かにはなるかも。構造物を作ると必ず自然はそれに対応した反応を示してくる。“薬”と同じ。薬害とか公害とかを考えて計画せよ。霞ヶ関のような都心の高層ビルからでは国民のための政策は出ない。又、今の政治家は市町村から県、国会議員、大臣に至るまでその質の悪さは目を覆うばかりである。
◎”天地は国の明鏡なり”とは古人の名言。
霞ヶ関の号令は国の隅から隅まで行き渡る。
私は一人の科学者として“学術会議”に強く期待する。学術会議あげてこの狂ったとしか思えぬ霞ヶ関と国会議員、大臣の頭の脳味噌を洗い清めるしかないと思われる。今回の調査は前日の午後3時頃、気仙沼を出発。翌日13時頃の仙台に帰着となった。こういう調査は二度とないと思い書き記して学会で発表する気となる。
◎「子供は未来の宝者」若者を育てるのが我らの使命と感ずる。
◎若者を育て、日本の未来を明るく背負ってもらうべく尽力せし。幼児から、子供から希望を与えてもらった!忘れ得ぬ調査なり。
(2015, 10月 地震学会のポスターの参考資料に加筆を加えた)