17:15 〜 18:30
[HCG27-P02] 原子力災害における科学者とステークホルダーの協働のあり方
キーワード:福島、原子力災害、科学者とステークホルダー
原子力災害におけるStakeholderは誰なのだろうか。国もStakeholderの一人であり、県、市町村、そして近隣住民、避難区域の住民もすべてStakeholderである。他の問題と同様に、原子力災害におけるStakeholderには階層性があると同時に、Stakeholderの間にも異なる見解、場合によっては対立がある。避難している住民はStakeholderであると同時に加害・被害関係における被害者でもある。このような状況の中で科学者は誰と協働すべきなのであろうか。
原子力災害は解決すべき問題であるが、解決には様々なあり方がある。日本の公害の歴史を振り返ると、それは犠牲の歴史でもあった。日本は犠牲のシステムにより発展してきたといえるが、それはまだ継続している。公式発見からすでに60年を経過した水俣病がまだ解決していないことをみても、このことは明確であろう。このような状況の中で科学者が誰にとっての問題を解決しようと考えるか。それは一義的には被害者であろう。被害者にとっての解決とは、決して元には戻らない現実のなかにおける諒解の形成と考えて良い。諒解の形成においてその専門性により役割を果たすことが科学者の役割である。
福島では放射性物質の沈着を題材に優れた研究成果を生み出すことも重要な科学者の貢献である。この場合のStakeholderは国あるいは世界といえる。放射性物質が沈着した現場で、調査・観測を行い、放射性物質の挙動を物理的に明らかにすることによって、新しい知識を生産し、論文の形で公表することが科学者の責務である。しかし、科学的知見が直ちに被害者にとっての諒解の形成に繋がるとは限らない。問題の解決に科学は必要だが、科学だけでは解決できないのである。
科学者が、どの主体との関係性を重要と考えるかは自由であるが、このことは科学者がどのような世界をみているか、ということとも関連するように思える。福島における科学者の立ち位置は多様であるが、そのスペクトルの両側に、日本から世界を見る視線と,日本の中の地域を見る視線の二つがあるように思える。すなわち、放射性物質の挙動解明を通じて研究を推進する立場と、地域に深く入り込み被害者と協働して未来を創成しようとする二つの立場である。前者の評価軸は論文であるが、後者は問題解決の達成こそが成果であり、現状の研究評価システムに適合しているとは言いがたい。
しかし、後者は“問題の解決を共有”した枠組みの中で、科学者としての役割を果たそうとする行為で、これはギボンズのモード2サイエンスに通じる立場である。これはTransdisciplinarityの実現といえるのではないだろうか。一方、“問題を共有”する立場では、科学者がそれぞれの守備範囲に基づき研究を行って得られた新しい知識を論文という形で共有する。これはモード1サイエンスと通じる立場である。普遍性を追求する科学は近代文明の牽引力となり、利便性に富んだ都市社会を生み出したが、様々な問題の解決を具現化しなければならない現在はモードの異なるサイエンスを評価する時期が来たのではないだろうか。それがFuture Earthだと考える。
科学者はその研究対象との関係性において、価値を排除するということが科学的行為であるという認識がかつてあったように思われる。しかし、福島における原子力災害は、被害者の立場における解決を目指すとき、価値・倫理・哲学の観点を外すことはできない。Future EarthがめざすTransdisciplinarityの実現とはまさにInterdisciplinarityの上に、価値・倫理・哲学を置くフレームの中で、諒解形成のために科学者が役割を果たすということである。諒解の形成に必要な基準は、①共感基準、②理念基準、③合理性基準、である。まずステークホルダーとの間で共感がなければならない。次にどのような社会が望ましいかという理念が共有される必要がある。その上で、科学的合理性に基づく判断を行う必要がある。FEにおいては、③のみでなく、①、②の基準を重視することがTransdisciplinarityの達成に繋がる。
福島を教訓として、日本が絶対避けなければいけない道は、“犠牲によって成り立つ利己的な社会”に向かう道である。科学者が問題解決の場で役割を果たし、社会のあり方に関与するとき、Science in society, science for society(ブダペスト宣言)が実現し、Transdisciplinarityが達成されるはずである。10年後にFEを通して科学者がよりよい社会の実現のために機能した、といえることがFEの成功であると考える。
原子力災害は解決すべき問題であるが、解決には様々なあり方がある。日本の公害の歴史を振り返ると、それは犠牲の歴史でもあった。日本は犠牲のシステムにより発展してきたといえるが、それはまだ継続している。公式発見からすでに60年を経過した水俣病がまだ解決していないことをみても、このことは明確であろう。このような状況の中で科学者が誰にとっての問題を解決しようと考えるか。それは一義的には被害者であろう。被害者にとっての解決とは、決して元には戻らない現実のなかにおける諒解の形成と考えて良い。諒解の形成においてその専門性により役割を果たすことが科学者の役割である。
福島では放射性物質の沈着を題材に優れた研究成果を生み出すことも重要な科学者の貢献である。この場合のStakeholderは国あるいは世界といえる。放射性物質が沈着した現場で、調査・観測を行い、放射性物質の挙動を物理的に明らかにすることによって、新しい知識を生産し、論文の形で公表することが科学者の責務である。しかし、科学的知見が直ちに被害者にとっての諒解の形成に繋がるとは限らない。問題の解決に科学は必要だが、科学だけでは解決できないのである。
科学者が、どの主体との関係性を重要と考えるかは自由であるが、このことは科学者がどのような世界をみているか、ということとも関連するように思える。福島における科学者の立ち位置は多様であるが、そのスペクトルの両側に、日本から世界を見る視線と,日本の中の地域を見る視線の二つがあるように思える。すなわち、放射性物質の挙動解明を通じて研究を推進する立場と、地域に深く入り込み被害者と協働して未来を創成しようとする二つの立場である。前者の評価軸は論文であるが、後者は問題解決の達成こそが成果であり、現状の研究評価システムに適合しているとは言いがたい。
しかし、後者は“問題の解決を共有”した枠組みの中で、科学者としての役割を果たそうとする行為で、これはギボンズのモード2サイエンスに通じる立場である。これはTransdisciplinarityの実現といえるのではないだろうか。一方、“問題を共有”する立場では、科学者がそれぞれの守備範囲に基づき研究を行って得られた新しい知識を論文という形で共有する。これはモード1サイエンスと通じる立場である。普遍性を追求する科学は近代文明の牽引力となり、利便性に富んだ都市社会を生み出したが、様々な問題の解決を具現化しなければならない現在はモードの異なるサイエンスを評価する時期が来たのではないだろうか。それがFuture Earthだと考える。
科学者はその研究対象との関係性において、価値を排除するということが科学的行為であるという認識がかつてあったように思われる。しかし、福島における原子力災害は、被害者の立場における解決を目指すとき、価値・倫理・哲学の観点を外すことはできない。Future EarthがめざすTransdisciplinarityの実現とはまさにInterdisciplinarityの上に、価値・倫理・哲学を置くフレームの中で、諒解形成のために科学者が役割を果たすということである。諒解の形成に必要な基準は、①共感基準、②理念基準、③合理性基準、である。まずステークホルダーとの間で共感がなければならない。次にどのような社会が望ましいかという理念が共有される必要がある。その上で、科学的合理性に基づく判断を行う必要がある。FEにおいては、③のみでなく、①、②の基準を重視することがTransdisciplinarityの達成に繋がる。
福島を教訓として、日本が絶対避けなければいけない道は、“犠牲によって成り立つ利己的な社会”に向かう道である。科学者が問題解決の場で役割を果たし、社会のあり方に関与するとき、Science in society, science for society(ブダペスト宣言)が実現し、Transdisciplinarityが達成されるはずである。10年後にFEを通して科学者がよりよい社会の実現のために機能した、といえることがFEの成功であると考える。