日本地球惑星科学連合2016年大会

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口頭発表

セッション記号 H (地球人間圏科学) » H-DS 防災地球科学

[H-DS19] 津波とその予測

2016年5月25日(水) 13:45 〜 15:15 201A (2F)

コンビーナ:*行谷 佑一(国立研究開発法人 産業技術総合研究所 活断層・火山研究部門)、今井 健太郎(国立研究開発法人 海洋研究開発機構)、座長:中田 聡史(神戸大学海事科学研究科)、矢沼 隆(株式会社パスコ)

15:00 〜 15:15

[HDS19-18] 慶長9年12月16日(1605Ⅱ3)関東沖地震による房総半島での津波高さ分布

*都司 嘉宣1 (1.公益財団法人深田地質研究所)

キーワード:慶長南関東地震津波(1605)、房総半島、寺院記録

慶長9年12月16日の深夜,本州の南方海域で起きた地震による津波は,房総半島から四国・鹿児島に至る海岸に大きな影響をもたらした.この地震はしばしば,東海沖,南海沖に起きる巨大地震と解釈され,あるいは関東沖と南海沖の離れた2海域に生じた二元地震と理解されることもあった.たしかに,この地震による津波は,四国の阿波,土佐の二国と,八丈島,および房総半島で特に大きかったためこう理解されることには一理あった.しかし,この地震が明白に京都で無感であったこと,近畿・中部地方に地震の揺れによる被害記録が全くないこと,東海地方,あるいは紀伊半島の海岸で明白な大きな津波の来襲を示す記録が湖西市白須賀をのぞいてほとんどなかったことは,この地震が東海地震,あるいは南海地震であるという見解には大きな疑問を抱かせるものであった.このように見解の分かれる慶長九年の地震像に対して石橋ら(2013)は,この地震が小笠原海溝のプレート境界に生じた巨大地震ではないかという作業仮説を提案し,この地震が東海沖,および南海沖に震源がないモデルによっても既知の津波高分布を説明しうることを示した. この地震が,房総半島に大きな津波被害をもたらしたことは,『房総治乱記』などの軍記物の記録に記載があることが知られていた.そこには「潮災に逢しは,辺原,新官...」に始まる文章で,津波に被災した35個の集落名が記されている.この文章の文末に「都(すべ)て四十五ケ所也」とあるが,写本が書き写されるうちに10カ所の村名が脱落したらしく,現在の写本に見る集落名は35カ所である.この津波記録が軍記物にしか記されていないことから,文書としても信頼度が劣るとみなされてきたのはやむを得ないことであった.しかしながら,筆者らは被災35カ村の一つである鴨川市天面(あまづら,「尼津」)の西徳寺のご島津実隆住職から,この寺の縁起に地震・津波の生々しい現地記載があるとのお知らせを受け,その記載を調査した.その結果,この寺で大きな揺れを感じたこと,金属製の本尊が津波で流され,後に付近の井戸で発見されたと記された,この寺の縁起記録を検証することが出来た(伊藤ら,2005).これによって『房総治乱記』の記載の真実性をしめす具体的な現地記録を得たこととなった.しかしながら,この時は当時この本尊の仏像が安置されていた場所が不明で,正確な津波浸水値を測定することまでは出来なかった.昨年,同御住職から,寺の敷地の借り受けのいきさつを示す江戸時代以前の記録が新たに見つかったとの御連絡を得た.筆者はさっそく同寺に出向き,記録文献を閲覧させていただき,慶長津波当時,同寺の本堂は既に今と同じ位置にあり,そこにあった本尊が津波に流失したことの確証を得た.慶長津波の時に本尊が置かれていた台座の標高を測定したところ,ここでの津波浸水高さは17.3mであることが判明した. この調査の後,筆者は,津波被災があったと記録される房総沿岸35ヶ村のうちに,集落の形態から,そこでの津波の浸水高さの最小値が推定できる場所があることに気付いた.例えば矢指戸(やさしど,現いすみ市大原字矢指戸)は津波被害が起きた村の一つであるが,矢指戸の明治期の5万分の一地形図と現代の住宅地図を見ると,集落で一番低い家屋の前の道路の敷地の標高はすでに7.7mであり,そこから一気に海岸汀線に下りる地形をしている.いっぽう,津波によって家屋の全壊流失が生ずるには敷地上2.0mの冠水は必要であるとされる(越村ら,2009).このことから,矢指戸で家屋被害を生ずるためには,津波浸水高さは最小限9.7mあったことが知られるのである.同様の考察によって,岩船で7.7m,日在(ひあり)で6.8m(以上現いすみ市),一宮町東浪見(とらみ)で,6.4m,一宮で6.9mが津波浸水の下限値であることが判明する.以上のことから,慶長九年地震の津波の房総半島での浸水高さ(の下限)の分布図として図2を得る.宝永(1707),安政東海(1854),昭和19年(1944)東南海地震など,東海沖の海域に震源のある地震の津波が,房総半島の中部および北部でこのように大きな津波高となったことはなく,この津波起こした地震の震源の位置は関東地方の南部沖にあったことが示唆される.

謝辞:鴨川市天面の西徳寺の島津実隆住職には,同寺所蔵の貴重な文献を閲覧する機会を与えていただき,感謝申し上げます.

参考文献
石橋克彦・原田智也,2013,1605(慶長九)年伊豆-小笠原海溝巨大地震と1614(慶長十九)年南海トラフ地震という作業仮説,地震学会秋季大会,108
伊藤純一・都司嘉宣・行谷佑一,2005,慶長九年十二月十六日(1605.2.3)の津波の房総における被害の検証,歴史地震,20,133-144.
越村俊一・行谷佑一・柳沢英明,2009,津波被害関数の構築,土木学会論文集B,65(4),320-331.