14:00 〜 14:15
[HGG13-02] 日本海側の人間活動と森林変遷-福井県日向湖と北潟湖を例に-
キーワード:日向湖、北潟湖、花粉分析、農地開墾
森林の伐採は材目的のみでなく、燃料や農地の開墾目的によっても行われる事が知られている。材の利用目的での森林の大伐採は16世紀末には顕在化し、森林資源の枯渇が懸念され、江戸幕府や諸藩により保護政策がとられる。しかし、そこに至るまで、そして、その後の人間活動が森林にもたらした影響についてはあまり知られていない。この研究では、福井県日向湖と北潟湖の花粉分析を行い、両地域で人間活動が活発化してくる古墳時代以降の人間活動による森林への影響について検討する。
福井県若狭町に位置する日向湖は三方五湖と呼ばれる湖沼群の中の一つの湖で、標高200m程度の低い山に囲まれている。湖畔には遺跡は分布しないが、隣の久々子湖周辺には遺跡が多数分布する。久々子湖周辺の平野部には水田が広がり、近くの若狭湾の海岸沿いでは古墳時代から奈良時代にかけて製塩が盛んに行われていた。11世紀ごろより荘園の発達も記録されている。江戸時代には日向水道、浦見川、嵯峨隧道の開削が近隣であった。一方、福井県あわら市に位置する北潟湖は海側は低い山であるが、陸側には広い平野が発達し、水田が広がる。明治時代に新田開発のため開田橋が造られ、淡水化が進み、干拓地が広がった。北潟湖でも2014年に平安時代の製塩炉が発見さている。周辺では製塩土器が多数発掘され、荘園開発以前にも森林への干渉が予想される。この両地域の人間活動の森林への影響を明らかにするため、2014年12月にロシア式ピートサンプラーで北潟湖のコア(14KTG01-2:450 cm)を、2015年3月にマッケラスピストンコアラーを用いて日向湖のコア(15HG02:228.5 ㎝)を採取し、花粉分析を行った。炭素14年代測定で、北潟湖のコアでは深度311 cmで1155±100 cal AD、日向湖では深度187 cmで2265±85 cal BPという結果が得られている。
両地域で過去1500年の間に森林の大きな変化が3時期ある。 10世紀ごろまでの周辺は、両地域とも人間活動が少ないと考えられ、樹木花粉の割合が大きく、90%近くとなる。シイやカシが主体で、コナラやスギも多く混じる林が発達していた。これらの林が大きく変化するのは10世紀から12世紀と考えられる。日向湖周辺の大森林伐採は10世紀後半、北潟湖周辺ではおおよそ12世紀初頭に認められた。いずれもイネ花粉の増加が伴う。おそらくこの時期の各地の荘園発達による水田開発に関係していると考えられる。この開発は両地域とも大規模で、他の時代には見られず、以前の状態に戻ることはない。農地の開墾のために平野部にあった森林を大伐採し、現在まで平野部に農地が維持されてきたことが推測される。日向湖と北潟湖の製塩活動の影響についても花粉分析結果で認められた。いずれも樹木花粉の割合が減少するが、荘園の発達時期に比べればかなり緩やかな変化であった。その後、大きな変動は見られないが、15世紀になると日向湖周辺で、16世紀末から17世紀には北潟湖でニヨウマツが増加する。このため、樹木花粉の割合からは森林が回復したように見えるが、他の樹種の回復は見られず、荒地にマツが二次林として侵入してきた、または、防風林として海岸沿いに植えられたと考えられる。江戸時代には日向湖周辺で大きな土木工事が3件あり、その時期にもマツ花粉が増加している。北潟湖でも19世紀後半にマツ花粉の増加する時期があり、また、その後、イネ科花粉の増加も見られ、開田橋の工事と関係している可能性がある。
人間活動による森林の変化が3時期認められたが、その中で最も大きな影響を与えた時期は10世紀から12世紀の農地拡大の時期にあたる。これは不可逆的な変化であったと考えられる。製塩の燃料目的や、16世紀後半の材のための伐採はいくらかの変化をもたらすが、農地拡大よりは穏やかなものであった。
福井県若狭町に位置する日向湖は三方五湖と呼ばれる湖沼群の中の一つの湖で、標高200m程度の低い山に囲まれている。湖畔には遺跡は分布しないが、隣の久々子湖周辺には遺跡が多数分布する。久々子湖周辺の平野部には水田が広がり、近くの若狭湾の海岸沿いでは古墳時代から奈良時代にかけて製塩が盛んに行われていた。11世紀ごろより荘園の発達も記録されている。江戸時代には日向水道、浦見川、嵯峨隧道の開削が近隣であった。一方、福井県あわら市に位置する北潟湖は海側は低い山であるが、陸側には広い平野が発達し、水田が広がる。明治時代に新田開発のため開田橋が造られ、淡水化が進み、干拓地が広がった。北潟湖でも2014年に平安時代の製塩炉が発見さている。周辺では製塩土器が多数発掘され、荘園開発以前にも森林への干渉が予想される。この両地域の人間活動の森林への影響を明らかにするため、2014年12月にロシア式ピートサンプラーで北潟湖のコア(14KTG01-2:450 cm)を、2015年3月にマッケラスピストンコアラーを用いて日向湖のコア(15HG02:228.5 ㎝)を採取し、花粉分析を行った。炭素14年代測定で、北潟湖のコアでは深度311 cmで1155±100 cal AD、日向湖では深度187 cmで2265±85 cal BPという結果が得られている。
両地域で過去1500年の間に森林の大きな変化が3時期ある。 10世紀ごろまでの周辺は、両地域とも人間活動が少ないと考えられ、樹木花粉の割合が大きく、90%近くとなる。シイやカシが主体で、コナラやスギも多く混じる林が発達していた。これらの林が大きく変化するのは10世紀から12世紀と考えられる。日向湖周辺の大森林伐採は10世紀後半、北潟湖周辺ではおおよそ12世紀初頭に認められた。いずれもイネ花粉の増加が伴う。おそらくこの時期の各地の荘園発達による水田開発に関係していると考えられる。この開発は両地域とも大規模で、他の時代には見られず、以前の状態に戻ることはない。農地の開墾のために平野部にあった森林を大伐採し、現在まで平野部に農地が維持されてきたことが推測される。日向湖と北潟湖の製塩活動の影響についても花粉分析結果で認められた。いずれも樹木花粉の割合が減少するが、荘園の発達時期に比べればかなり緩やかな変化であった。その後、大きな変動は見られないが、15世紀になると日向湖周辺で、16世紀末から17世紀には北潟湖でニヨウマツが増加する。このため、樹木花粉の割合からは森林が回復したように見えるが、他の樹種の回復は見られず、荒地にマツが二次林として侵入してきた、または、防風林として海岸沿いに植えられたと考えられる。江戸時代には日向湖周辺で大きな土木工事が3件あり、その時期にもマツ花粉が増加している。北潟湖でも19世紀後半にマツ花粉の増加する時期があり、また、その後、イネ科花粉の増加も見られ、開田橋の工事と関係している可能性がある。
人間活動による森林の変化が3時期認められたが、その中で最も大きな影響を与えた時期は10世紀から12世紀の農地拡大の時期にあたる。これは不可逆的な変化であったと考えられる。製塩の燃料目的や、16世紀後半の材のための伐採はいくらかの変化をもたらすが、農地拡大よりは穏やかなものであった。