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[HSC16-05] 津波特異点とそこでの防災対策について-京都府舞鶴市大浦半島、および和歌山件御坊市を例として-
キーワード:津波特異点、1983年日本海中部地震津波、1993年北海道南西沖地震津波、1854年安政南海地震、若狭湾、御坊市
[津波特異点とは] 過去幾度かの津波の来襲を経験してきたある一地方の海岸で,いつも決まった場所で津波が周囲の他の点より高く現れる場所が存在することがある.A.宮古湾の最奥部に位置する赤前,B.房総半島の旭市飯岡,能登半島先端部,隠岐諸島,島根半島,C.奥尻島南端の青苗,佐渡島の北東端,D.伊豆下田,奥尻島青苗の東の初松前,E.尾鷲市賀田,F.ハワイ列島,トンガ国ニアウトプタプ島,などもこのような場所である.このような場所を「津波特異点」と呼ぶことにしよう.このような場所が存在する理由を対応する小文字で記していくと(a)V字湾の最奥部,(b)舌状に浅海部が沖に突き出た海底地形がある場合にその根元に当たる点,(c)半島の先端,(d)半島を回り込んだ直背後の点,(e) 湾の基本固有振動の腹点,(f) 周辺に広い陸棚斜面海域を従えた大洋中の孤島,のどれかに当たっていることが多い.実は大阪も(e)の特異点と考えられる.
以上のような津波特異点は,複数の津波の過去事例のデータから気づかれることが多いが,(a)を除いて,住民からも防災行政からも意識されていないことが多い.本研究でも筆者らは2つの津波特異点を見いだした.若狭湾の舞鶴市大浦半島と,和歌山県御坊市海岸である.
[若狭湾の津波特異点] 若狭湾に突き出た大浦半島の先端の海岸で津波の浸水高が大きくなることは,1983年日本海中部地震,および1993年北海道南西沖地震の両津波による高さ分布に見ることができる.大浦半島の先端部に位置する野原と小橋は,この2回の津波のいずれにおいても分布のピークを示しており,大浦半島の先端部が著しい津波特異点であることを示している(上述の理由(c)).しかるに,この両集落は,海と集落の間に砂浜しかなく,集落を津波被害から守るべき堤防が全くない状態に置かれているのである.
[御坊市の津波特異点] 和歌山県御坊市の中心市街地は,宝永地震(1707),安政元年(1854)の安政南海地震の両度の津波のさい,中心にある浄国寺の本堂入り口の雨だれ石まで(宝永,2.8m),および寺門前の街路まで(安政南海,2.5m)であって,いずれも御坊は市街地の半分の浸水にとどまり,軽い被害ですんだ,と考えられてきた(都司ら,1996).ところが,安政南海地震の数値計算をしてみると,御坊の前面で津波は高さ9.0mに達するという結果が出てくる.古文献の記載と数値計算結果とがあまりに違いすぎるので,数値計算がどこかで間違っているのでは,とプログラム,計算過程をしらみつぶしにしらべてもどこにも誤りはない.調べてみるとこういう事であった.当時名屋浦と呼ばれた御坊市中心街の東側を流れていた日高川の流路は,海岸線付近まで近づいて,ここで砂丘に行き当たり,砂丘を隔てて海岸線に平行に塩屋の集落の西側を南東に約1km余り進んで,王子川に合流してここでやっと太平洋に注いでいた.御坊の中心街を襲った歴代の南海地震の津波は,実は砂丘を乗り越えてきた直接の波ではなく,海岸部で曲がりくねった日高川の河口から迂回して入った波だったのである.この夜に海岸部で迂回した日高川は,津波の直撃から御坊の町を守るのには役に立っても,洪水のとき,大量の流水を海に流し出すことが出来ず,御坊はしばしば洪水の大災害をこうむってきた.そこで,明治期から現在まで日高側の河口は,河口部の砂丘が削られ消滅し,御坊の中心街の前面が直接太平洋に接するようになった.洪水の被害が軽減され,かつ大型船の入港が可能となってめでたしめでたし,であるが.宝永,安政南海の2度の南海地震の津波の被害を軽減してくれた日高側河口の砂丘は,今は無いのである.御坊市の行政はこのことに気がついて居るであろうか?
参考文献
都司嘉宣,加藤健二,荒井賢一,1994,1993年北海道南西沖地震による津波,その2,
科研費突発災害研究,No.05306012,(代表:石山祐二),65-78
都司嘉宣,岩崎伸一,1996,和歌山県沿岸の安政南海津波(1854)について,歴史地震,169-187
以上のような津波特異点は,複数の津波の過去事例のデータから気づかれることが多いが,(a)を除いて,住民からも防災行政からも意識されていないことが多い.本研究でも筆者らは2つの津波特異点を見いだした.若狭湾の舞鶴市大浦半島と,和歌山県御坊市海岸である.
[若狭湾の津波特異点] 若狭湾に突き出た大浦半島の先端の海岸で津波の浸水高が大きくなることは,1983年日本海中部地震,および1993年北海道南西沖地震の両津波による高さ分布に見ることができる.大浦半島の先端部に位置する野原と小橋は,この2回の津波のいずれにおいても分布のピークを示しており,大浦半島の先端部が著しい津波特異点であることを示している(上述の理由(c)).しかるに,この両集落は,海と集落の間に砂浜しかなく,集落を津波被害から守るべき堤防が全くない状態に置かれているのである.
[御坊市の津波特異点] 和歌山県御坊市の中心市街地は,宝永地震(1707),安政元年(1854)の安政南海地震の両度の津波のさい,中心にある浄国寺の本堂入り口の雨だれ石まで(宝永,2.8m),および寺門前の街路まで(安政南海,2.5m)であって,いずれも御坊は市街地の半分の浸水にとどまり,軽い被害ですんだ,と考えられてきた(都司ら,1996).ところが,安政南海地震の数値計算をしてみると,御坊の前面で津波は高さ9.0mに達するという結果が出てくる.古文献の記載と数値計算結果とがあまりに違いすぎるので,数値計算がどこかで間違っているのでは,とプログラム,計算過程をしらみつぶしにしらべてもどこにも誤りはない.調べてみるとこういう事であった.当時名屋浦と呼ばれた御坊市中心街の東側を流れていた日高川の流路は,海岸線付近まで近づいて,ここで砂丘に行き当たり,砂丘を隔てて海岸線に平行に塩屋の集落の西側を南東に約1km余り進んで,王子川に合流してここでやっと太平洋に注いでいた.御坊の中心街を襲った歴代の南海地震の津波は,実は砂丘を乗り越えてきた直接の波ではなく,海岸部で曲がりくねった日高川の河口から迂回して入った波だったのである.この夜に海岸部で迂回した日高川は,津波の直撃から御坊の町を守るのには役に立っても,洪水のとき,大量の流水を海に流し出すことが出来ず,御坊はしばしば洪水の大災害をこうむってきた.そこで,明治期から現在まで日高側の河口は,河口部の砂丘が削られ消滅し,御坊の中心街の前面が直接太平洋に接するようになった.洪水の被害が軽減され,かつ大型船の入港が可能となってめでたしめでたし,であるが.宝永,安政南海の2度の南海地震の津波の被害を軽減してくれた日高側河口の砂丘は,今は無いのである.御坊市の行政はこのことに気がついて居るであろうか?
参考文献
都司嘉宣,加藤健二,荒井賢一,1994,1993年北海道南西沖地震による津波,その2,
科研費突発災害研究,No.05306012,(代表:石山祐二),65-78
都司嘉宣,岩崎伸一,1996,和歌山県沿岸の安政南海津波(1854)について,歴史地震,169-187