日本地球惑星科学連合2016年大会

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ポスター発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-IS ジョイント

[M-IS34] 2016年熊本地震および関連する地殻活動

2016年5月26日(木) 15:30 〜 16:45 ポスター会場 (国際展示場 6ホール)

17:15 〜 18:30

[MIS34-P102] 1889(明治22)年明治熊本地震の詳細震度分布と震源

*武村 雅之1 (1.名古屋大学減災連携研究センター)

キーワード:明治熊本地震、震度分布、震源域、活断層

1889(明治22)年熊本地震(M=6.3)は、我が国の地震・地震工学の研究が、ジョン・ミルンに代表されるお雇い外国人教師に先導される時代を終え、日本人の研究者が中心となる時代への転換点に起こった地震である。
地震調査は、当時帝国大学(現在の東京大学)理科大学教授の小藤文次郎や1886(明治19)年に日本初の地震学教授となった関谷清景が行っている。関谷は元々肺病を病み、前年の磐梯山噴火の調査で病状がさらに悪化したなかでの調査で、結局、途中で調査を断念せざるをえなくなった。そのような中で、直後にまとめられた主な地震調査の資料は「地学雑誌」(明治22年創刊の第9巻)の小藤文次郎による「熊本地震概察報告」と農商務省技師の金田樽太郎、による「熊本地震調査報告」である。また、1920(大正9)年に今村明恒が「震災予防調査会報告第92号」で被害や震源位置、余震などの情報を詳細にまとめている。
小藤(1889)に掲載された郡市別の死者数を平成の地震と比較すると、明治熊本地震と今回の地震では死者発生場所が大きく異なっていることが分かる。地震規模がほぼ同じ前震と比較しても、明治熊本地震は飽田郡(現在の熊本市西区)で多くの死者が出ているのに対して、今回は益城町で被害が大きい。一方、熊本市(現在の中央区)では、どちらの地震でも死者が出ており、明治の時にも熊本城も大きな被害を出し29カ所の石垣が崩れた。ただし、天守閣は明治熊本地震の前の西南の役で焼失しており、地震の際は存在せず当然被害の記録はない。現在の天守閣は1960(昭和35)年の再建である。
さらに、今村(1920)に掲載された市町村別の被害集計資料から住家の全潰率ならびに全半潰率をもとめ、市町村毎の詳細な震度分布図を作成した。震度は、現在の熊本市の西部、金峰山(西山)周辺で6弱と最も高い。一方平成の地震で被害の大きい益城町の中心部、当時の木山村の震度は5弱である。
活断層の分布をみると、阿蘇山から南西に延びる布田川断層が益城町付近で日奈久断層を分岐している。明治熊本地震で被害の大きい熊本市西部は分岐点より西側の布田川断層の延長部に近い。今回の前震も本震も震源位置は分岐点に近く、余震分布は前震が主に分岐点より日奈久断層方向へ、本震は分岐点より北東方向の布田川断層へと延びている。詳細震度分布から判断すると明治の地震は、今回の地震とは震源域を異にしており、強いて活断層と対応させようとすれば分岐点より南西側の布田川断層の延長部に対応する可能性がある。本震の余震分布をみると、布田川断層はやや北傾斜であり、そのことを考慮すると金峰山付近で被害が大きことが説明できるかもしれない。
最後に、関谷清景は病魔のために調査は途中で断念せざるを得なかったが、前年の磐梯山噴火の記憶が新しいなかで、金峰山が噴火するのではないかと戦々恐々としていた人々に地震知識の普及を図り、人心の安定に尽くした功績は大きかったと伝えられている。