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[MZZ32-03] ナウマン-鷗外論争(1886-1887)をナウマンの側から見る
キーワード:ナウマン、鷗外、論争
ナウマン(Edmund Naumann, 1854-1927)が何者か知らなくても、鷗外論争の相手と言うことは、巷間でもよく知られている。鷗外論争は、鷗外の死後出版された『独逸日記』や小堀桂一郎著『若き日の森鷗外』でよく知られているが、これは鷗外を中心にして記載されている。この論争をナウマン自身はどう見ていたかを探ってみたい。鷗外の側から「何故にか頗る不平の色あり」と記載されたナウマンは、ほんとうに不平があったのであろうか。日本には、森鷗外側のみの情報が伝わり、日本の地質学界はナウマンが日本に対して恨みを持って、日本のことを悪く言ったと解釈してきた。
ことは1886年3月から1887年2月の間におきた。日本が1854年に不平等条約を結んで開国し、追いつき追い越せと、多くのお雇い外国人を導入し、条約改正の努力とともにお雇い外国人を減らしていった経過がある。ナウマンのまわりには原田豊吉の帰国、帰独の圧力、通常より1階級低い勲章というシナリオが編まれている。
勲章は1年後に、勲五等から勲四等にあげられた。ナウマンの1880年からの雇用は4年の契約だった。1884年にベルリンで万国地質学会が開催予定だったので、4年で日本の地質図を完成する予定だったが、万国地質学会のほうが、ペストの流行で開催が1年遅れたので、契約を6カ月ずつ2回延長したのだった。原田との論争は鷗外論争の後である。不平どころか、ナウマンは絶頂期であった。ナウマンの製作した日本の地質図は非常に高く評価され、1886年にはドイツ、イギリス、オーストリアからナウマンに講演依頼がきて、森鷗外がからんだ3月のドレスデンの会合も絶好調であった。ナウマン・鷗外論争はミュンヘン発行の新聞で行われた。この論争が不評ではなかったことは、新聞からもその後、記事原稿の依頼があったことで、証明される。1900年のパリでの万国地質学会で日本の地質学者と再会したナウマンは大変機嫌がよかった。
文献
小堀桂一郎,1969,『若き日の森鴎外』,東京大学出版会,722pp.
森鷗外、1996、『独逸日記 小倉日記――森鷗外全集13』、ちくま文庫、510pp.
ことは1886年3月から1887年2月の間におきた。日本が1854年に不平等条約を結んで開国し、追いつき追い越せと、多くのお雇い外国人を導入し、条約改正の努力とともにお雇い外国人を減らしていった経過がある。ナウマンのまわりには原田豊吉の帰国、帰独の圧力、通常より1階級低い勲章というシナリオが編まれている。
勲章は1年後に、勲五等から勲四等にあげられた。ナウマンの1880年からの雇用は4年の契約だった。1884年にベルリンで万国地質学会が開催予定だったので、4年で日本の地質図を完成する予定だったが、万国地質学会のほうが、ペストの流行で開催が1年遅れたので、契約を6カ月ずつ2回延長したのだった。原田との論争は鷗外論争の後である。不平どころか、ナウマンは絶頂期であった。ナウマンの製作した日本の地質図は非常に高く評価され、1886年にはドイツ、イギリス、オーストリアからナウマンに講演依頼がきて、森鷗外がからんだ3月のドレスデンの会合も絶好調であった。ナウマン・鷗外論争はミュンヘン発行の新聞で行われた。この論争が不評ではなかったことは、新聞からもその後、記事原稿の依頼があったことで、証明される。1900年のパリでの万国地質学会で日本の地質学者と再会したナウマンは大変機嫌がよかった。
文献
小堀桂一郎,1969,『若き日の森鴎外』,東京大学出版会,722pp.
森鷗外、1996、『独逸日記 小倉日記――森鷗外全集13』、ちくま文庫、510pp.