17:15 〜 18:30
[O04-P21] 「アルコラ太地 まちなみ編」 みんなで楽しく!防災ジオツアーの試み
キーワード:防災、まちあるき、ジオパーク
タイトルの「アルコラ」は、地元の言葉で「歩こう」の意味である。
鯨の町として知られる太地町は、人口約3300人の小さな町である。この町には、海岸段丘はあるものの、大きな河川がなく平野が少ないため、かつては入り江に面した狭いエリアに多くの人々が暮らしていた。
私達は、魅力的なまちなみの残るエリアを、地形的要素に基づく集落の形成と津波や台風など自然災害への対応など、先人達の知恵と現在の防災を感じながら歩くジオツアーを企画した。
なお、このツアーは、太地町を中心に活動する「たいジオ。」と、大学の知的資源を活用し、自治体等と連携しながら地域防災力の向上を推進する和歌山大学防災研究教育センターの共同主催である。
実施日 平成27年6月13日(土)
設定時間 約2時間30分
[コース] 太地漁港→和田の岩門(ジオサイト)→鯨漁に関わった人々が暮らした町並→太地小学校(災害時避難場所でもある小学校で、小学生が作成した地域の防災マップを見学)→太地水産協同組合事務所(国の登録有形文化財)→恵比須神社(鯨骨の鳥居)→幸助屋(空き家利用のコミュニティスペース)
[参加者] 27名(男15・女12) 年齢:10才未満(家族で参加)から70代
居住地:太地町内7、近隣市町(那智勝浦町、新宮市、串本町)6、その他県内9、県外5
[広報活動] 地元地方新聞での告知、町内にはポスター掲示と回覧板による告知、和歌山大学関係者への声かけ、「たいジオ。」のブログおよびfacebook
紀伊続風土記(江戸時代後期に紀州藩が編纂した地誌)に「村の端磯辺にあり。山を切抜きて門の形をなす。内に入れば村居に適せり。和田氏居住せし所といふ。」とある和田の岩門をくぐれば、江戸時代からの流れをくむまちなみ。その特徴は、細く入り組んだ路地と立ち並ぶペンキ塗り木造家屋であり、これらの家屋は大正から昭和20-30年代に建てられたものが多い。紀伊半島の南部は、毎年秋には台風が接近し大雨や強風に見舞われることも少なくないが、和田の岩門は海からの強風を遮る役目も果たしている。この集落の地形は、小規模ながら海に向かってやや高くなっている後背低地であり、台風時に低地側の路地に船を避難させた様子を古い写真で確認できる。また、集落の浸水を最小限とするための排水路のほとんどは、現在は暗渠となっている。
今回のツアーにおいて私達は、ジオツアー=地形や地質の学習、ジオは難しいと受けとめられないよう留意した。このツアーコースは、狭い路地を歩くことが楽しめる上、平屋のようで2階がある構造やペンキの色使い、「へりし」と呼ばれる住宅基礎、格子や軒裏などにみられるこだわり、かつて移民や出稼ぎから帰国した人達が建てた洋風家屋など、ポイントを定めて家々を見ていくだけでも飽きないものである。さらに「脊古(せこ)」「遠見(とおみ)」「漁野(りょうの)」などの表札名、水産協同組合の成り立ちや恵比須神社の鯨骨鳥居などから、鯨漁とともに歩んできたこの町の文化や気質を感じとれるよう心がけた。
今回、参加者を募る広報を太地町とその周辺に限定しなかった。ツアー中には、異なる居住地の参加者同士が歩きながら打ち解けたやりとりをする姿も見られ、このやりとりが、町外からの参加者には太地町がより身近に感じられるものに、町内の参加者には当たり前の風景や暮らしが実は魅力的なものだと再確認するきっかけにできたのではないかと考える。
平成26年に認定されたばかりの南紀熊野ジオパークについて、地元での認知度はまだまだ高くないのが現状であり、「ジオパークってなに?」「何をやってるの?」「難しそう」などの声も聞かれる。
私達「たいジオ。」は、ジオツアーの企画やイベントへの参加等を通じて、小難しくないジオ、身近なジオ、そして魅力ある地元を発信し続けていきたいと考えている。
鯨の町として知られる太地町は、人口約3300人の小さな町である。この町には、海岸段丘はあるものの、大きな河川がなく平野が少ないため、かつては入り江に面した狭いエリアに多くの人々が暮らしていた。
私達は、魅力的なまちなみの残るエリアを、地形的要素に基づく集落の形成と津波や台風など自然災害への対応など、先人達の知恵と現在の防災を感じながら歩くジオツアーを企画した。
なお、このツアーは、太地町を中心に活動する「たいジオ。」と、大学の知的資源を活用し、自治体等と連携しながら地域防災力の向上を推進する和歌山大学防災研究教育センターの共同主催である。
実施日 平成27年6月13日(土)
設定時間 約2時間30分
[コース] 太地漁港→和田の岩門(ジオサイト)→鯨漁に関わった人々が暮らした町並→太地小学校(災害時避難場所でもある小学校で、小学生が作成した地域の防災マップを見学)→太地水産協同組合事務所(国の登録有形文化財)→恵比須神社(鯨骨の鳥居)→幸助屋(空き家利用のコミュニティスペース)
[参加者] 27名(男15・女12) 年齢:10才未満(家族で参加)から70代
居住地:太地町内7、近隣市町(那智勝浦町、新宮市、串本町)6、その他県内9、県外5
[広報活動] 地元地方新聞での告知、町内にはポスター掲示と回覧板による告知、和歌山大学関係者への声かけ、「たいジオ。」のブログおよびfacebook
紀伊続風土記(江戸時代後期に紀州藩が編纂した地誌)に「村の端磯辺にあり。山を切抜きて門の形をなす。内に入れば村居に適せり。和田氏居住せし所といふ。」とある和田の岩門をくぐれば、江戸時代からの流れをくむまちなみ。その特徴は、細く入り組んだ路地と立ち並ぶペンキ塗り木造家屋であり、これらの家屋は大正から昭和20-30年代に建てられたものが多い。紀伊半島の南部は、毎年秋には台風が接近し大雨や強風に見舞われることも少なくないが、和田の岩門は海からの強風を遮る役目も果たしている。この集落の地形は、小規模ながら海に向かってやや高くなっている後背低地であり、台風時に低地側の路地に船を避難させた様子を古い写真で確認できる。また、集落の浸水を最小限とするための排水路のほとんどは、現在は暗渠となっている。
今回のツアーにおいて私達は、ジオツアー=地形や地質の学習、ジオは難しいと受けとめられないよう留意した。このツアーコースは、狭い路地を歩くことが楽しめる上、平屋のようで2階がある構造やペンキの色使い、「へりし」と呼ばれる住宅基礎、格子や軒裏などにみられるこだわり、かつて移民や出稼ぎから帰国した人達が建てた洋風家屋など、ポイントを定めて家々を見ていくだけでも飽きないものである。さらに「脊古(せこ)」「遠見(とおみ)」「漁野(りょうの)」などの表札名、水産協同組合の成り立ちや恵比須神社の鯨骨鳥居などから、鯨漁とともに歩んできたこの町の文化や気質を感じとれるよう心がけた。
今回、参加者を募る広報を太地町とその周辺に限定しなかった。ツアー中には、異なる居住地の参加者同士が歩きながら打ち解けたやりとりをする姿も見られ、このやりとりが、町外からの参加者には太地町がより身近に感じられるものに、町内の参加者には当たり前の風景や暮らしが実は魅力的なものだと再確認するきっかけにできたのではないかと考える。
平成26年に認定されたばかりの南紀熊野ジオパークについて、地元での認知度はまだまだ高くないのが現状であり、「ジオパークってなに?」「何をやってるの?」「難しそう」などの声も聞かれる。
私達「たいジオ。」は、ジオツアーの企画やイベントへの参加等を通じて、小難しくないジオ、身近なジオ、そして魅力ある地元を発信し続けていきたいと考えている。